この世の楽園・赤い城
赤い城は、その名の通り、赤砂岩の城壁に守られた赤い巨大な城塞だ。「レッド・フォート」とも「デリー城」とも呼ばれる。2007年には「赤い城の建造物群」として、隣接するサリームガル城とともに、世界遺産(文化遺産)に登録されている。
長さ2.4㎞の城壁に囲まれた城内には、ムガル帝国時代、約5万7千名の人々が住んでいたと伝わる。
主要門は南と西に、一つずつあった。南の門は「アクバラーバード門(通称デリー門)」といい、主に皇帝が宗教行事に出かける際に利用した。
西の門は「ラホール門」と称され、主に高官や使節、貴族、官僚などの通用門であった。
ラホール門をくぐった先のチャッター・チャウクと呼ばれる通りには、主に宮殿に仕える女官たちのためのアーケード付きの城内商店街(バザール)があった。商店街の近くには、刺繍や彫金などの職人の工房が数多く存在したとみられている。
商店街と職人の工房の先には、奉楽所(ナッカール・ハーナ)がある。奉楽所では宮廷づきの楽士たちが、皇帝の登場を告げる音楽を奏でた。宮廷を訪れる者は、ここで象から降りなければならなかったため、象門(ハーティー・ポール)とも呼ばれていたという(宮原辰夫『ムガル建築の魅力』)。
公謁殿(ディーワネ・アーム)には、かつてルビーやサファイア、エメラルドなどの宝石がはめ込まれていた王座があり、ここで皇帝は毎日正午頃に、一般謁見を行った。
貴賓謁見の間である内謁殿(デォーワーネ・ハース)の広間の壁には、インドのペルシア語詩人アミール・フスローの詩「地上に楽園があるのならば、それはここなり、こここそが楽園」が、ペルシア語で刻まれている。他にも祝祭の間(ラング・マハル)、既婚婦人の居所(ハース・マハル)などの宮殿が並ぶ。
祝祭の間の前方の四分庭園(チャハール・バーグ)では、段差のある大理石の水槽にそれぞれ噴水が設置されており、それらの噴水が一斉に高く舞い上がる姿は、まさに「地上の楽園」を思わせただろう。ムガル帝国の繁栄を物語る城であった。
だが、ムガル帝国の栄華は永遠ではなかった。やがて赤い城は、ムガル帝国滅亡の舞台となるのだ。
ムガル帝国滅亡とインド独立の舞台に
ムガル帝国は、6代皇帝アウラングゼーブの時代に帝国の最大領域を実現するも、宗教対立や、内乱による諸侯の自立、イギリスやフランスなどの進出などにより、急速に衰退。19世紀前半にはイギリス東インド会社が本格的に統治を開始し、最後の皇帝バハードゥル・シャー2世(1775~1862)は、赤い城のみを支配区域とする、名目上だけの皇帝になりはてていた。
形ばかり存続していたムガル皇帝に、引導を渡したのが「インド大反乱」である。
インド大反乱とは1859年5月に、イギリス支配に坑して起きたインド初の民族的大反だ。東インド会社が編成したインド人傭兵シパーヒー(セポイ)の反乱に始まり、北インド全域に広まった。「シパーヒー(セポイ)の乱」とも呼ばれる。
反乱軍はデリーを占領し。80歳を超えるバハードゥル・シャー2世を傀儡に擁立。ムガル帝国の復活を宣言し、その名により、各地に反乱を呼びかけた。このため赤い城は、イギリス軍と反乱軍の両方から侵攻や略奪を受けることになる。同年9月、ハードゥル・シャー2世はイギリス軍に捕らえられ、赤い城で裁判にかけられている(フランシス・ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』)。
翌1858年、ハードゥル・シャー2世は反逆罪ではビルマに追放され、ここにムガル帝国は名実ともに滅亡した。反乱も鎮圧され、イギリス東インド会社は解散。以後、インドはイギリスの直接支配下に置かれることになる。
しかし、ムガル帝国が滅びても、赤い城の歴史は終わらなかった。200年近いイギリス支配ののち、1947年8月15日、インドは独立を果たしたのだ。
そのときインドの初代首相に就任したネルー(1889~1964在位1947~1964)が独立記念演説したのが、 赤い城の城壁の前である。インド国旗が翻る赤い城の城壁の前で、ネルー首相が集まった国民に語りかける写真は、インド史の本にもよく登場する。
このネルー首相の演説の翌年から、毎年8月15日のインド独立記念日には、赤い城で首相演説が行われるようになった。
赤い城は現在でもデリー門周辺と北西部は軍の施設として使われており、ムガル帝国が滅び去っても、重要な役割を担い続けている。