Americanness

 移民のことに話を戻そう。どんな国に移民するばあいでも、その国に第一歩を踏んだときからサヴァイヴァルが始まる。その手段として自己本能的に同じ故国をもつ人に頼り、助け合う互助組織ができるのは自然な成り行きだ。リトルトーキョー、コリアンタウン、チャイナタウン、などアジア系が密に暮らす街ができる。ユダヤ系でもイタリア系でもそれは同じある。が、アジア系住民のなかには、英語になじまないが故に出身地の文化や言葉に固執し、自分がいま住んでいる国のことには関心を示さず、自分たちが持ち込んできたマナーや習慣をそのままこの国で通そうとする人もいる。

 マズローの理論では、「安全の欲求を満たされていないのに他人にかまっていられない」というレベルなのだから仕方がない、と科学的なジャッジを下されるかもしれない。が、それでは共生社会は成り立たなくなる。移民としての歴史が浅いアジア系の人々のなかには、自分はアメリカ人であるが、”Americaness”(アメリカ人らしさ)とは何か、と潜在的な悩みをもつ人が少なくない。とくに移民二世では、両親の故国と自分が生まれたアメリカとの板挟みになっていると感じる、と多くのアジア系の友人から聞いた。

 

アガペー

 市内バスの車中で周りを気にせず大声で話をするくせに、注意されると英語ができないふりをする。そんなエトランゼに出くわすことがある。こういう出来事が、気が付かないうちに心のなかにバイアスのかかったモノの見方を、記憶として蓄積させるのかもしれない。センシティビティの欠如は、ほかの人種を含め長くこの地に住んでいる人たちとの間に軋轢を生むことになる。

 When in Rome, do as Romans do.<郷に入れば郷に従え>という、使い古された言葉の意味を今一度考える必要もあるように思う。これは既存のものにすべて盲従するということではない。人種差別に関するセンシティビティやリテラシーの向上を考え、今一度多民族国家であるということを認知することで互いの文化、習慣や宗教を尊重し、”折り合い”を付けていくしかないのではないのだ。それがアメリカ”合衆国”であり、Americanであると信じたい。

 

トランスフォーメーションからくるパラダイムシフト

 最近DX をはじめトランスフォーメーションという言葉がいろんなところで使われている。

 アメリカの白人社会には、永年にわたり構築したNORM(標準、基準)のなかで快適に暮らし、マイノリティは、そのNORMのなかでおとなしくしていればいいと考える白人至上主義者が存在する。他民族共生社会の国が成熟する過程では、いままでの多数派のただの”習慣“と受け取られることになってくる。しかし人々は、そういったNORMでつくられた目に見える権威にしか目を向けない危険性がある。そして”進化”しないNORMは差別を生む火種となる可能性がある。今まで気持ちのうえでマジョリティであった人たちにとって、数のうえからも”声が大きくなるマイノリティ“は脅威と感じていると思う。その昔、故国を捨ててこの国にやってきたときの移民の精神は、今の移民であっても変っていないことに気づいていないのだ。

 あらゆる面で世界は大きく、そして驚くほどのスピードで変わっている。必要なのは、ゆく先を長期に見据えたものの考え方だ。アメリカは、夢のような目標を掲げる人たちを受け入れ、応援する社会である。そしてそれを支えていくのは多様性である。いろんな価値観やモノの見方をもち、文化、言語や宗教も違う人たちがそれを支えているのである。アメリカはこのまま人種差別を深刻なまま放置し続け、その結果多様性を受け入れる力を失うことが、どれほど致命的になるかを知っているはずだ。過去の大多数が構築したNORMに拘泥するあまり、変革を恐れることは死滅を意味するとさえ感じる。

ファーマーズマーケットも春らしく色とりどりの花や野菜で活気づく。色や種類があってこそ喜びも深い。皮膚の色もそうあってほしい

 社会心理学に、”in group"と”out group”という考え方がある。我々はいとも簡単に自分がグループに属することで安心を得る。反面、自分とは違うグループを理解もせず、違うという理由だけで主体的に判断し簡単に敵対行動をとり、怒りのはけ口にする。それが現在の人種差別という社会の“ひび”を深くしている。我々自身が相対的に相手を見て理解することが、その“ひび”を埋めていく解決の大きな契機になるはずだ。

 この街は世界に類のない多民族都市になり、人々はコスモポリタンになりつつあった。これからも進み続ける変革のためには、幼いころから相対的なモノの見方を養い司法のコントロールでなく、相手の痛みを理解するという根気のいる、根源的なことから始めなければならないと強く思う。

 

WHAT A WONDERFUL WORLD

 マンハッタンのカフェで春の日差しを浴びながら、沈思にふけったこの話はここで擱筆したいと思う。私は恐ろしく大きな人種差別に対してまだまだ理解が浅く、人種差別という人権侵害に対して具体的に明快な解決策を出せてはいない。ただこの問題に対する所感を述べるに終わったが、問題意識を心のどこかにもちながら声を上げ、行動に反映させるという当たり前のことをしようと思う。なんだか気持ちの沈む話が多かったが、我々の住むこの世界は現実的に、人種差別を肯とする人々こそマイノリティである。我々ひとり一人の心のなかに差別に対する敏感なレーダーを稼働し続けることが、人類が素晴らしいと思う世界の礎の一つになると信じたい。

 イランから来た友人が発した、”日本人の眼”に関するコメントにへこんだ私であったが、それには後日談がある。ある日私は高熱でベッドから起き上がれない状況だった。そのとき、同じ研究をしていたウガンダの友人に研究室へ行けないと話した。彼は独裁者イディ・アミンから逃れ、命からがらアメリカの大学院で極貧生活しながら勉強していた。私の部屋にやってきた彼が手に持っていたものは、ウガンダの部族に古くから伝わる様々なハーブを煎じた薬であった。おかげで、私はたちまちのうちに回復した。そしてその材料を探すのを手伝ったのは、件のイラン人の友人であった。

 ルイ・アームストロングの代表曲の一つである“What a Wonderful World”を私はこれからも大切に心のなかで歌い続けたい。