写真・文=山下英介
スーツ生地を巡る謎
僕のようなスーツ好きにとって、ある種の聖域ともいえるのが「生地の値段」である。比較的リーズナブルなテーラーでは、選ぶ生地によって仕立て上がりの価格は大きく異なる。しかし、もともとある程度の価格をとる一流テーラーの場合、「このランクの生地までは一律価格」という設定であることが多い。つまり、テーラーさんにとっては安い生地を選んでもらったほうが嬉しいってこと?
だとすると僕がスーツをオーダーするとき、テーラーさんはニコニコ笑いながら「このやっすい生地選べ〜」とか「あちゃ〜、こいつメチャクチャ高い生地選びやがったよ……」とか、念力を送っていたりするのだろうか? そんな舞台裏を知るのは怖いので、僕はどんなにテーラーと仲よくなっても、生地の原価だけは聞かないようにしている。ただひとつだけ知っているのは、「〝FOX〟のフランネルは別格に高い」ということだ。
既製服では使えない!? FOXのフランネル
〝FOX〟とは英国の生地メーカー〝FOX BROTHERS〟のことで、なんと1772年創業という超老舗。もともとこのメーカーが発明したという起毛素材のフランネル生地は、某テーラーいわく「めちゃくちゃ高い」ため、既製服でこの生地を使っているメーカーはごく少ない。そして使えた場合は、デザイナーとしてはデカデカと織りネームで主張したくなってしまうほど、貴重な生地なのだという。
僕自身もここのグレーフランネルは大好きで、何着かスーツをつくったことがある。なんというか柔らかいけれどコシが強くてドレープ感がきれいに出るし、霜降りの〝キレ〟がいいのだ。それにしても、超高番手生地とかカシミアでもないフランネルが、そこまで高いとは不思議。いったいほかのフランネルと何が違うんだろう?
そんな疑問を抱いていたときにドンピシャで出逢ったのが、ダグラス・コルドーさん。近年ではウェルドレッサーとしても世界的にその名を知られる、〝フォックス〟のCEOである! 「〝FOX〟以外はフランネルと認めない」と語る彼の招きに応じて、その工場を見学することにした。
〝FOX〟を生んだ英国・サマセット
〝フォックス〟の工場があるのは、イングランド南西部のサマセット州。ロンドンからは鉄道で2時間程度。なだらかな丘陵地帯がどこまでも続く景色は、すこし北海道にも似ている。そんな風光明媚な田舎街にて僕を出迎えてくれたダグラスさんは、フランネルのスリーピーススーツ姿でディフェンダーを駆る現代のカントリージェントルマンスタイルで、それが惚れ惚れするほど格好いい! フランネルという生地がもともとカントリーサイドで着るための生地であったことを、改めて思い知らされる。
サマセットの駅からファクトリーまでの道中、ダグラスさんはこの街の歴史を教えてくれた。
「今ではその影もありませんが、19世紀のサマセットは英国を代表する生地の生産拠点でした。その理由としては、サマセットは港湾都市のブリストルに近いため、いち早くオーストラリアから輸入したメリノウールを使えた、という地理的メリットがあります。英国産のハードなウールと較べると、オーストラリア産のメリノウールは断然ソフトで軽量ですからね」
19世紀の〝FOX〟の繁栄ぶりはすさまじく、最盛期には19エーカー(約7700平方メートル)の工場と500人ほどの工員を抱えていたという。車が煙突のある巨大な建物の前を通ったとき、ダグラス氏は「実はここがもともとの〝FOX〟のミルだったんです。現在レストア中ですが、私たちはいつかここに戻ってきますよ」と語っていた。ビジネスは絶好調のようだ。
FOXのアーカイブルームにて
真っ黒なディフェンダーが最初に到着したのは、小さな煉瓦づくりの建物だった。これはかつて〝FOX〟の経理部だった場所で、現在ではアーカイブの生地を展示する場所になっている。ここには18世紀から織られた貴重な生地も大量に保管されており、来客は自由に触れることが許される。実は2000年代前半、〝FOX〟は衰退し、倒産の危機にさらされていた。しかし当時別のアパレル会社で働いていたダグラスさんは、これらのアーカイブ生地を目にしたことで、〝FOX〟のビジネスに大きな可能性を見出した。それこそがダグラスさんがこの会社の経営に乗り出した理由だという。そして、その歴史と英国製品のメリットをアピールすることで〝FOX〟は数年にしてV字回復を果たしたのだ。