堺さんはなぜマセラティが好きなのか

 タレントの堺正章さんはマセラティの熱烈なファンとして知られている。その堺さんに、なぜマセラティが好きなのか、訊ねたことがある。マセラティ関連の洋書が数冊置かれたご自宅の居間で、そこには堺さんの愛するクラシック・マセラティが2台置かれていたけれど、堺さんはこんな内容のことを語った。

「マセラティ兄弟の悲劇的な物語にひかれるのですよ」

 男ばかり7人兄弟の20世紀初めの物語である。長男のカルロは、17歳にして単気筒のモーターサイクルをつくり、レースに出場した。後には木製シャシーにエンジンを載せたクルマを製作したりした。当時の最先端マシンである自動車に魅せられた彼は、兄弟な多大な影響を与えつつ、肺の病気で30歳になるのを待たずに早逝する。

 カルロの推薦によってイソッタ・フラスキーニで働き始めたアルフィエーリを中心に、エットーレとエルネストの3人でワークショップを設立したのが1914年のことで、これが正式なマセラティのスタートとなる。

 第1次大戦後、アルフィエーリは1926年にマセラティ・ティーポ26というレーシング・カーをつくりあげると、自らドライブしてタルガ・フローリオに参戦し、クラス優勝を遂げる。レーシング・ドライバー、エンジニアとしてあまたの勝利を挙げるけれど、レース中のクラッシュで負ったケガが原因となって、1932年、44歳で亡くなる。

 幸いにしてエルネストがエンジニア、ドライバーとして跡を引き継ぎ、マセラティの名前を轟かせる。彼ら兄弟は同時代のエンツォ・フェラーリほどマネージング能力に長けておらず、1937年、実業家のアドルフォ・オルシに会社を売却することになる。しかも10年間は残るという条件で。契約が終わった1947年、兄弟はマセラティを去ることになる。

兄弟のひとりがデザインしたマセラティのシンボル、三叉の銛(トライデント)。創業地ボローニャの広場にあるネプチューン像に由来する。trofeoとはトロフィーの意。

スムーズな駆動系に惚れ惚れ

「どんなに悔しかったでしょうねぇ……」と堺さんは遠い目をしたのだった、と筆者は記憶する。もしもカルロやアルフィエーリがもうちょっと長生きしていたら、マセラティはまた別の道を歩んでいたかもしれない。

 レヴァンテ トロフェオのスムーズな駆動系に惚れ惚れとしながら、筆者は夜の首都高速をしばし走らせた。エア・サスペンションと可変ダンピングがもたらす乗り心地は、21インチというビッグ・サイズの薄っぺらいタイヤにもかかわらず快適で、じつにゆったり贅沢な時間が過ごせる。全長5メートル、ホイールベース3メートルちょっと、という巨体だけれど、その身のこなしはエレガントかつスポーティで、おとなのムードが漂う。4WDのシステムは普段は100パーセント後輪駆動で、状況に合わせて前後トルク配分を50:50まで自動的、かつ瞬時に切り替える。大パワー、大トルクを支える、鍛えられし足腰を持っている。

赤と黒のインテリアは、ドライバーを現代のジュリアン・ソレル気分にしてくれる、かもしれない。要所に用いられたカーボンのパネル(オプション)と、シルバーに輝くペダルは高性能車の証。

 スポーツ・モード、コルサ・モードにすれば、エンジンのサウンドはいっそう大きくなり、乗り心地は俄然硬くなるけれど、それはそういう気分のときに切り替えればよいことである。私はV8ツインターボの奏でる通奏低音に胸騒ぎをおぼえながら、同時にきわめてリラックスした気分で、師走の慌ただしさとは別世界にしばし、どっぷりと浸る。

 LEDに彩られた師走の東京でドラマが起きるとしたら、レヴァンテのようなムードあふれるクルマのなかで、であるに違いない。