戦国合戦「兵糧攻め」で苦しむのはどっち? 兵糧の確保は戦略の生命線。撮影/西股 総生(以下同) (画像1/6) 写真1:山形県の畑谷(はたや)城。最上義光が敵の侵攻を食い止めるために築いた城だが、1600年に直江兼続の猛攻により一日で落城。攻め手の中には前田慶次もいた。 (画像2/6) 写真2:岡山城天守。左手に付属する建物は「塩蔵」と呼ばれており、城の中枢部に食料庫が設置されていたことがうかがえる。現在の建物は鉄筋コンクリートによる再建。 (画像3/6) 写真3:小田原城の惣構(そうがまえ)。1590年、豊臣秀吉が北条氏の小田原城を兵糧攻めにしたのは有名な話。だが、巨大な惣構の突破を断念した結果、不本意な長期戦に引き込まれた、というのが実情だった。 (画像4/6) 写真4:秀吉が小田原攻めの本営として築いた石垣山城。秀吉本人は尊大に振る舞っていたが、末端の将兵は深刻な食糧不足に陥っていたことが、記録に見える。 (画像5/6) 写真5:新潟県の箕冠(みかむり)城から見た秋の頸城(くびき)平野。稲の刈り入れが進んでおり、画面左奥には春日山城が見える。戦国武将たちも、こうした情景を眺めながら作戦を練っていたのだろう。 (画像6/6) 戦国合戦「兵糧攻め」で苦しむのはどっち? この写真の記事を読む