札幌オリンピックでの試行錯誤
フィギュアスケートの会場は2カ所あったが、フリーが行われた真駒内屋内競技場を担当した。
「あのときは4カ月、札幌にいました」
と振り返る。
「カラーテレビが最初に出た頃で、中継の関係で明るさは1400ルクスはないと駄目だということになりました。リンクの上に立っていますと、照明がつくと頭が温まるくらいでした。競技の合い間ですとか、製氷の間は照明を落としてもらうなど、氷の管理のためにいろいろ試行錯誤をしてなんとか乗り切ったのを覚えています」
試合では、リンクサイドで選手たちの演技を見守った。強く印象に残っているのは、ジャネット・リンだと言う。
「アメリカの選手ですが、人気が大変ありました。その選手が目の前で転んだ瞬間というのは忘れられませんね」
1998年の長野オリンピックでは、「ちょうど定年だったので、私は一緒に参加したぐらいなものでした」。
定年を迎えたあとは、「ちょっと遊んでました。ゴルフ場のアルバイトなどもしてみたことはありました」と言う髙橋は、リンクに戻ることになる。
2006年のトリノオリンピックで荒川静香が金メダルを獲得。各地のスケート教室に多くの希望者が殺到したように一大ブームを巻き起こした。同時にアイスショーの開催が増えた。2007年には東京体育館で世界選手権開催を控えてもいた。そのため髙橋も呼び戻されることになったのだ。
「戻るのをためらうことはなかったですね」
と笑う。
現場に復帰し、数々の大会やアイスショーに携わり続け、今がある。(続く)