なぜ20世紀のファッション展が面白いのか 

カクテル・ドレス―ピート・モンドリアンへのオマージュ
1965年秋冬オートクチュールコレクション 
© Yves Saint Laurent © Alexandre Guirkinger

 それにしても、デザイナー回顧展が続く。2022年にはシャネル展、ディオール展、マリー・クワント展が続き、イヴ・サンローラン展へときて、20世紀に一時代を画したファッションデザイナーの展覧会シリーズがクライマックスを迎えた感がある。デザイナーに焦点を当てた各展覧会はアーカイブを大切に守ってきた人々や学芸員によって魅力的に演出され、ファッションの歓喜と愛にあふれていた。インスピレーションの宝庫だった。

 なぜ20世紀のファッション展が立て続けに開催され、しかもこんなに面白いのか。

 相対的に、ここ30年ほどのグローバリズムのもとに繰り広げられてきたファッションの情景が浮かび上がる。大量に資本を投下される世界戦略。ストリートやスポーツなど、別のカルチャーシーンとのコラボ。セレブやインフルエンサーとの連携。売れる小物の強化。多様性とは口ばかりのプラスチックなルッキズムの横溢。本質的な創造とは次元の違うマーケティングの世界でファッションが語られるようになっていった。

 増えるコレクションに対応するためデザイナーは疲弊し、デザイナーを駒として使う背後のプレイヤーたちは、ますます富み栄えていった。高度資本主義のもとで利益を上げ続けることが求められるビジネスにおいては、必然の成り行きだったのだろう。

 少なくとも20世紀まではこうではなかったはずだ、という多くの人のやり場のない思いが、創造性によって君臨し社会を動かしたデザイナーたちの本質に立ち返ろうという形で回顧されているのではないかと考えたくなる(もちろん、現代にも続くブランドのブランディング強化のためである場合もあり、一概には言えない)。

 いま若い人たちの間で70年代や80年代のヴィンテージを着るブームが起きていたり、20世紀に一世を風靡した製品の復刻版を生産・販売するビジネスの動きが生まれたりしている。人を幸福にするデザインの力が迷走しているゆえに、歴史に希望が見いだされているということもあるかもしれない。懐古趣味ではなく、フラットなインスピレーションの源泉としての歴史のなかに。

「イヴ・サンローラン展 時を超えるスタイル」展示風景。第11章「イヴ・サンローランと日本」より。1963年4月にサンローランは来日し、ファッションショーをおこない、東レとプレタポルテ(既製服)の契約を締結している。パリのセーヌ川左岸で既製服ライン「サンローラン リヴ・ゴーシュ」をスタートした1966年よりも早い時期にすでに日本で既製服展開をしていたことに驚く

 展覧会で素通りせずにじっくりご覧になっていただきたいのが、最後の部屋の映像である。サンローランのキャリアをたどる映像のなかに、1998年、FIFAワールドカップの決勝戦直前にサッカースタジアムでおこなわれたショーの一部も流れている。五大陸から、肌の色も髪の色も違うそれぞれに個性的な300人のモデルが集まり、サンローランの300着のドレスやスーツをまとい、ラベルの「ボレロ」に合わせて会場を歩く。

1998年7月12日、 FIFA W杯決勝の前に開催されたイヴ・サンローラン ショー 写真=Best Image/アフロ

 最後は、スタジアム中央に描かれた「YSL」のロゴの上に300人が立つのだ。「ボレロ」の劇的なクライマックスと300着のサンローランを着た300人のモデルがぴたりと重なるフィナーレは、サンローランがファッションによって五大陸の人類を統合した瞬間に見えて、何度見ても鳥肌が立つ(このショーだけを別で全編、流してほしかったくらいだ。ピエール・トレトン監督の2010年版イヴ・サンローランのドキュメンタリーにはフルバージョンが収録されている)。ショーの後におこなわれた決勝戦では、フランスが勝利した。

オフィスでのイヴ・サンローラン、パリのマルソー大通り5番地のスタジオにて、1986年 
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 どんな肌の色であっても、髪の色であっても、人類は、等しく美しい。美しいから、僕の服を着せたい。そんなデザイナーとしての願望を実現することで多文化共存主義を推し進めようとしたサンローラン。その後、半世紀経って、理想はまだ、宙に浮いている。

©️ Musée Yves Saint Laurent Paris