文豪それとも変なおじさん?
ただ私は川端の小説を「日本の美が書かれた小説」「すごい文豪の作品」と思って読むと、返って面白さが見えなくなってしまうのではないかと思います。少し乱暴な言い方になってしまいますが、ノーベル賞作家と思わないで、「なんか気持ち悪い、変なおじさんが書いた小説」と思って読んだほうが、より川端を感じられるのではないでしょうか?
たとえば『眠れる美女』(1961年刊)は、男性としての能力を失った老人のために、美しい処女を眠り薬で眠らせて相手をさせるという娼家に、五夜にわたって訪れる老人を主人公にした小説です。裸体で眠っている少女や熟女などいろいろなタイプの女性と、その体に手を触れずに一夜を過ごすという、なんとも言えないいやらしい小説で、ほかの作家にはぜったいに書けない世界だと思います。
「いい人はいいね」の人間愛
その一方で、初期に書かれた『伊豆の踊り子』(1927年刊)などは、人間愛にあふれた作品です。時世が合わなくなって、現在ではあまり読まれなくなってしまいましたが、以前は高校の教科書に載っていました。映像化も何度かされています。
『伊豆の踊り子』は川端の実体験だといわれている小説で、一高生(1877年設立の東京大学予備門を前身とした旧制高校)が、旅芸人の一行と一緒に旅をするというストーリーです。当時、エリート学生と旅芸人が道連れになるなんてありえないことでした。しかし川端は躊躇なく飛び込んでいきます。
人間関係において、家族がいれば家族をいちばん大事に思うものですが、川端にとっては生きている人すべてが親であり子供であったのではないでしょうか。文芸批評をしながら誰とでも関係を持ち、実生活では親戚の子を養女に迎えます。
映画では山口百恵さん演じる14歳のあどけない踊り子が「いい人はいいね」と言うセリフがあるのですが、本当にいい人、いい世界とはなんなのか、と常に川端は考えていました。じつはこれは夏目漱石も考えた命題なのです。
こんなに社会が変わっていくのだとするならば、どうすれば世の中が良い世界になるのか、どうすればよい人間が生まれてくるのか——。川端がその命題を受け継ぎました。そして最終的に、「美しい日本」という言葉に行き着いたのでした。
生と死の世界を行き来し、他者と自分を区別することもなく、ひたすら文学に向かった川端。そしてノーベル賞をもらってからさらに深く魔界に入った川端。
ノーベル賞の受賞は川端にとって大きな喜びであったと同時に、その死を早めた不幸でもあったのでは、と私は思うのです。