絵のなかで幾分なりとも華やかな色彩をまとっているのはこの岩だけなので、色味的にも岩が浮き出て見えることになる。

 絵を説明すると、以上のような具合になるだろうか。ちなみに、このように作品のありさまを説明することを「ディスクリプション」という。ディスクリプションをすると、作品をよく見るのに役立ち、ひいてはさまざまな発見や気づきがもたらされ、鑑賞が深くなる。気になる作品と出合ったら、やってみることをおすすめする。

 

単なる風景画とはいい切れない作品

 さて、ディスクリプションをしながら、この絵をじっくり見ていくと、どうもただならぬ雰囲気がじわじわと感じられ始める。それはじつに不思議な感覚である。ここに鎮座しているのは岩なのだから、無生命で無機質な存在であるはずなのだが、どうもそのようには思われなくなってくるのだ。

 物いわぬ岩ながら次第に何かをいいたげなように見えてき、動かざるはずが、いましも動き出しそうな予感さえ兆してくる。そもそも、ここにこの岩があること自体、偶然ではなく、何らかの意思の表れみたいにも思えてくる。

 つまり、この絵は現実の写生画のようでありながら、その実、非現実の成分を含んでいる、単なる風景画とはいい切れない作品なのである。ただ海辺の岩を描きながら、見る者を思索の世界へと誘う――まさに「幻想画家」の面目躍如といえよう。画家はいったい、この絵で何を見る者に伝えようとしたのか。何かの啓示と見たのか。あなたはいったいどう考えるだろうか。

 ルドンは、本作のような絵をもっぱらとした。印象派が目に見えるものを画布に描きとどめることを使命にしたのとは対照的に、目に見えない世界をイマジネーション豊かに表現しようと力を尽くした。人間の想像力や内的体験に信を置き、見えない世界の探究こそが人間性にとって大切なことだと考えた。

 物いわぬ岩の精神性を、あなたはどこまで汲み取れるだろうか。試しに岐阜まで出かけてみてはいかがだろう?