『ゴースト』『ファントム』とモデル名に幽霊めいた名前をつけるのはロールス・ロイスの伝統である。巨大なクルマでありながら、その接近に気づけないほど静かなクルマである、というのが命名の理由。ロールス・ロイス初のEVはその伝統に倣い『スペクター』と命名された。故に、モデル名的には正真正銘のロールス・ロイス。では、実際のそのクルマは、正統なロールス・ロイスか?
大谷達也がいち早く南アフリカで試乗して確かめた。
ロールス・ロイスのEVに求めるものは何か?
ディナーで同席したジャーナリストが、「航続距離は何km?」「バッテリーの寿命は何年?」「本当にロールス・ロイスの顧客はEVを買いたがるか?」といった類いの質問を熱心にしている。それを隣で聞きながら、「この人はロールス・ロイス オーナーの気持ちがまるでわかっていない」と私は感じていた。
なるほど、私のような庶民であれば、航続距離が何kmかとかバッテリーの寿命が何年とか、そういったことが確かに気になるだろう。けれども、車両価格で5000万円にもなるロールス・ロイスを購入する“スーパーリッチ層”には、そんなことは気にもならないはず。なにしろ、彼らはクルマを何台も、ことによったら何十台も所有しているのだ。そのうちの1台がEVで航続距離が500km程度だったとして、いったいどんな不便があるというのか?
長距離ドライブに出かけるのであれば、エンジンを積んだ「別のロールス・ロイス」か、それ以外の「脚の長いクルマ」に乗ればいいだけで、わざわざEVを選ぶ必要はない。つまり、1台ですべての目的をこなそうとする庶民(いや、いまやクルマを1台でも所有できれば立派な富裕層というべきかもしれない)とは、まったく異なる価値基準のなかで彼らは暮らしているのだ。
それでは、人はなにを求めてロールス・ロイスのEVを手に入れようとするのか?
ロールス・ロイスは誰のためのクルマなのか?
いまから4年前にインタビューした際、ロールス・ロイスの現CEOであるトルステン・ミュラー-エトヴェシュは、同ブランドの顧客の平均年齢がBMWグループのなかでもっとも若い43歳であると教えてくれた。ロールス・ロイスの典型的な顧客がシルクハットをかぶった老紳士であると想像するのは、いまや昔の物語。ITや投資で巨万の富を築いた若いスーパーリッチや、場合によっては人気のラッパーがこぞって購入するのが、現在のロールス・ロイスのありようなのだ。
こうした新しい潮流は、2010年にCEOに就任したミュラー-エトヴェシュが生み出したものといって間違いない。彼は、現職に着任するとまずは大規模な市場調査を実施。その結果、今後は世界中で若い超富裕層が続々と誕生するとの将来予想が明らかになったという。そこでロールス・ロイスは若い顧客にも受け入れてもらえる製品作りやコミュニケーションのスタイルに方針転換。これが効を奏して顧客層の大幅な若返りを実現したというのである。
しかも、彼らは既存の顧客を失わないことにも成功する。それは、第1に彼らの巧妙な製品作りの賜でもあるのだが、それとともに、ロールス・ロイスの伝統的な顧客には老舗ブランドのオーナーが少なくなく、彼らもまたほかの多くの老舗ブランドと同じように、顧客の若返りに四苦八苦しているからだとミュラー-エトヴェシュは語っていた。そんな彼らには、変容しつつあるロールス・ロイスが、自分たちの姿と重なって見えたのかもしれない。
前置きが長くなったが、これがロールス・ロイスとその顧客の現状であって、こうした前提抜きに、彼らにとって初のEVとなるスペクターについて語っても深い理解は得られないかもしれない。そう思って、ここまで長々とご説明申し上げた次第である。
ロールス・ロイスとEVの親和性
さて、先ごろ私が南アフリカで試乗したのは、ロールス・ロイス初のEVであるスペクターのプロトタイプ。彼らは同モデルの開発に際して、ロールス・ロイス史上最長となる250万kmのテスト走行プログラムを立案した。現在は、5つのフェーズからなるテスト走行プログラムの3段階目で、気温が高く乾燥した夏(そう、南半球はいまが夏真っ盛りだ)の南アフリカでの走り込みに取り組んでいるところ。そこに、世界中から集まった9名のメディア関係者がテストに加わり、そのコメントを開発に生かそうという試みなのである。ちなみに、発売前の開発車両に社外の人間が試乗するのは、ロールス・ロイス史上、これが初めてのことだという。
スペクターの諸元は別表に詳しいが、そのエクステリアデザインはいかにもロールス・ロイスらしいもの。ボディタイプに2ドア・クーペが選ばれたことを意外に思われる向きがあるかもしれないが、これがアクティブな若年層に向けたモデルであることを考えれば、パーソナル感溢れる2ドア・クーペがむしろ好適であることに気づくはず。なにしろ、彼らは「ロールス・ロイス史上初のEV」を買いたくて買いたくて、うずうずしているのだ。そうした、いわばアーリーアダプターであれば、スペクターのステアリングを自ら握って街に繰り出すことを望むだろう。だからこその2ドア・クーペなのである。
ケープタウン郊外のフランシュホークという街を起点に行なわれたテストドライブでも、基本的な特性、いや、ほとんどすべてのドライブ体験が従来のロールス・ロイスと変わらないことが確認できた。乗り心地はすこぶる快適。しかもハンドリングは正確で、全幅2mのボディを意のままにコントロールできる。試乗コースにはワインディングロードも含まれていたが、ここでスペクター・プロトタイプは、初めて進入する最初のコーナーから私の期待どおりの身のこなしを示し、極めて強い安心感をもたらしてくれた。
パワートレインが静かでスムーズで、いつでも圧倒的なトルクを生み出してくれるのも、従来のロールス・ロイスとなんら変わらない。なにしろ、電気モーターをお手本にエンジンを開発してきたのが、これまでのロールス・ロイスの歴史なのだ。それが、ついにホンモノの電気モーターをパワープラントとして迎え入れることができたのだから、ロールス・ロイスならではの魅力はさらに純度が高まったというべきであって、決して違和感を覚えるものではなかった。
アクセルペダルのコントロール性にしても、EVらしさを「これ見よがし」に強調する一部の製品とは正反対で、実に扱いやすい。従来のロールス・ロイスと違っていると思われたのは、Bモードを選ぶとワンペダルドライブ機能が立ち上がり、アクセルペダルから足を離すだけで完全停止が可能になったことと、全開加速を試してもV12エンジンの上品なエグゾーストノートが聞こえなくなったことくらい。いずれも、EVとして当然のことである。
つまり、ロールスロイスをEVとして正常進化させたのが、スペクターの姿であると思っていただいて間違いない。
ちなみに、若い顧客たちからはロールスロイスに「1日も早くEVを出して欲しい」との声が多数届いているそうだから、スペクターの成功は約束されたも同然といっていいだろう。