オン・ザ・ロード ── パート2

 僕が乗ったことのあるいちばん古いフェラーリは知人の所有する166MMで、それは所有者の知人の生年とおなじ1948年製だった。ミッレ・ミリア(MM)のヒーローだったこのカロッツェリア・トゥーリング製のバルケッタ型のフェラーリの、2リッター、60度V12の、メカニカル・ノイズとキャブレターの吸気音と腹にこたえる排気音とがまざりあったうえでの、高回転域での、あの鋭く高く、そして喉から血が出そうなほどのテノールの絶叫のごときフォルティッシモのサウンドは、いまもリアルな耳の記憶としてある。

 以来、ざっと20台ぐらいのV12、そしてV8のフェラーリに乗ったけれど、V6ははじめてである。そして、そのV6のサウンドは、一種、よい音の成分だけをスクリーニングしたうえで耳に響かせるものであった。そこに、現代フェラーリのテクノロジーの狡知があるけれど、166MMの咽喉も張り裂けよといわんばかりの絶叫はない。じつは、車内で聴くV6ターボのサウンドは、フェラーリが特許を取得したという「ホット・チューブ」なる装置がキャビンに送り込んでいるもので、低回転時のエキゾーストは低周波のノートとなって静粛性を強調し、高回転時には高周波のそれを届けて美音を強調する、というのだ。その効果のほどはともかく、はっきりしているのは6000rpmあたりからはじまるフェラーリ・ミュージックが、澄み切ってなお感情の抑揚をドラマチックに歌い上げるイタリア的美声であることだ。こればかりは、フェラーリ以外のどんなスーパーカー・メーカーも追随できないひとつの文化的な音である。

 ロック・トゥ・ロック2回転たらずの電動パワー・ステアリングは、さながらレーシング・カーのそれかとおもうほどにクイックでありながら、しかし、すこしも神経質ではなかったのもおどろきだった。とりわけ、切りはじめの1度とか2度のところでの感触がいい。じっさいに1度とか2度であるかはともかく、ドライバーの主観ではそれぐらいの感じの微小舵角に、フロントが即座に反応して緩みがないうえ、その反応にしっとりとしたおだやかな感覚がある。タイヤが落ち葉を踏んだ感触までもが伝わってくるというタイプの過敏ともいえるナマなフィードバックがあるわけではないけれど、路面にしっかり荷重が乗っている感覚がくっきりと伝わってくる。いわゆるステアリング・ゲインは高い。けれど、ゲインの立ち上がりかたに角がない。ステアリングにほどよい重さ=反力があり、生き生きとした接地感がつねに健在だ。こんなに感触のいい電動パワーステアリングには出合ったことがない。

 乗り心地もすばらしい。路面の状況を素直になぞるけれども、たとえば高速道路の目地段差のショックなどはミュートされた衝撃音として耳に入ってくるだけで、堅固なアルミ・スペースフレームのボディは平穏なままだ。磁性体による可変ダンピング機構を有するサスペンション・システムがソリッドかつ柔軟に動いて、路面からの不規則なショックをことごとくつぶしてしまい、キャビンに衝撃や振動は伝わってこない。中・高速コーナーが連続する箱根ターンパイクのワインディング・ロードの、ミドル・オブ・コーナーのバンプにけっこうな勢いで乗り上げても、バンプ・ステアは感じないし、フットワークが乱れることも、トラクションが抜けることもなかった。そのボディ・コントロールの確かさ、スムーズさは、不満がない、という域をこえていた。

スーパー・ハンドリング

 V6ターボが発揮する720Nmというそれじたい立派な最大トルクが発生するのは、フェラーリ・ミュージックのフォルティッシモの序章が幕開けする6250rpmという高回転においてである。しかし、その領域に回転計の針を飛び込ませるまでのあいだ、トルクが不足するということはまったくない。どころか、まるで、SZ系ロールズ・ロイスの6.75リッターV8から湧き出るように穏やかで、ゆたかな蓄えを感じさせる分厚いトルクに包まれる。167psの最高出力と315Nmの最大トルクを発揮するジェネレーターも兼ねるモーター・ユニットが、ウェバー・キャブレターよりも巧妙に、トルクの、間髪入れない「つき」を低速・中速域で実現しているのである。そして、6250rpmから上の領域は、8000rpmで663psを発生するV6の軽やかな回転が本領を発揮するところとなり、レッドゾーンのはじまる8500rpm直前までパワーを積み上げていく。

 ひとつのギアでファアアアアアンっと頂点に達しては、次のギアでふたたびアアアア―ンと頂点に向かって駆け昇るその音の盛り上がりのプロセスを繰り返しながら次々とコーナーを攻略していくうちに、脳はその豊穣なるサウンドの海に溺れていく。そうして無我・忘我のゾーンが訪れ、そのなかで、右足はスロットル・ペダルを、左足はブレーキ・ペダルをオンオフし、そして左右の手はステアリングとパドルを、意識とも無意識ともつかぬものの司令に動かされて操作するだけの無意識的器官になる。そして魂は、そのとき、煩悩にまみれた俗世から離陸して聖空間を翔けり回っている。これをドライビング・ハイという。

 と、まるで異世界に召喚されたかのごときドライビング経験が可能になるのは、296GTBの、たとえば、踏力に正確に比例して、音もなく速度を絞め殺すブレーキであったり、スッとステアリングを切れば、ためらいなくスッとノーズが向きを変え、コーナーの入口でも真ん中でも出口でも、ニュートラル・ステアをこともなげに維持しつづけるシャシーの振る舞いであったり、のおかげのスーパーハンドリング性能ゆえである。それは、ハイブリッド動力機関の尽きせぬ泉のようなトルクとパワーの無限供給力同様、フェラーリの高度な現代テクノロジーが可能にしたものだ。けれど、そうした一連のテクノロジーが、ドライバーを押しのけて主役顔をしたりすることは、けしてないのである。

よみがえるピュアリティ

 山道を降りて、ゆったりとしたペースで帰路の高速道路を流す。大排気量の自然吸気エンジンにしかおもえぬパワー・ユニットのナチュラルなフィールと、スーパー・ハンドリング・マシンらしからぬ厚みのある乗り心地に耽溺しつつ、296ドライブ経験を反芻していた。そして、このフェラーリは、電気モーターをふくむ制御技術の高度化によって、これまでのスーパーカーとは次元をことにする深みを獲得している、とおもった。もろもろの先端テクノロジーは、文楽の人形使いの黒衣のように、その存在をなきものであるかのように潜ませることに成功していた。296GTBが、シャシーとパワーにまたがるデジタル・テクノロジーによって、かつてないほどの深みと厚みをもったフェラーリになっていたとは、僕のまったくの予想外のことだった。296という名の電動化フェラーリは、自己目的としてのスーパー・スポーツカーの世界の限界を一気に押しひろげた。それは、1篇の詩のようにあざやかに、かつてのピュアなフェラーリを語り直していた。

 電動化を見直した。

 最後に付け加えると、東京と箱根を往復しておよそ250kmあまりを走った296TBが消費したガソリンは約28リッターであった。電動化の効果はめざましい!

 ふたたびいおう、フェラーリの電動化を見直した、と。