観光客としての自覚と責任を問う

京都 八坂の塔

 そのため、コロナ禍による観光危機のさなかにおいても、京都では「観光の復活」ではなく「もういちどあの日々を繰り返さない為にはどうすればよいのか」が議論されていた。

 本連載でもさまざまな新しい動きを紹介してきたように、外ばかり向いていた観光というビジネスのあり方への反省から、地元向けの業態へのシフトや、外国人偏重のビジネスモデルではなく「手堅い」日本人客とのバランスを再考する動き、そして観光客と地元住民がともに楽しめる空間づくりを模索する動きも活発である。

 こうして、いまや京都は観光の実験場ともいえるほど先端的な試みが多彩に展開される街となったが、それらの試みに共通するコンセプトを抽出するなら、たとえばコロナ禍の真っ最中である2020年12月に京都市とDMO KYOTOが共同で発表した「京都観光モラル(京都観光行動基準)」を参照することも有益だろう。

 その特色は、観光という営みにおいて、それぞれの立場の人々の関係性とそれぞれの責任をあらためて確認するものである。それは行政や観光業者だけでなく、市民、そして観光客に対する、観光を通して京都とかかわる際に遵守すべきモラル=行動基準の提示である。

 おりしもアフターコロナの世界のツーリズム業界では、地域の資源をただ消費するだけだった従来のツーリズムへの反省から、レスポンシブル・ツーリズムがひとつのキーワードとなっている。観光という営みの結果に対して観光業者や地域住民だけでなく、観光客自身も自覚と責任を持つべきとするツーリズムのあり方である。

 オーバーツーリズムによる観光の過剰と、コロナ禍による観光の消失。たった数年のあいだに極端から極端へと振り切る乱気流に巻き込まれながら京都が発したメッセージも、このように観光客にも自覚と責任を求める文脈にあるといえるだろう。

 

「あなたなら、また来てほしい」

 京都の観光事情について「よそさん」に説明する仕事をしていると、頻繁にぶつけられる定番の質問がある。

「結局、京都は観光客に来てほしいのですか?それとも、来てほしくないのですか?」

「ああ、もうじれったい!」と言わんばかりの都会人の性急さに、つい「そんなん、知らんがな・・・」とこぼしてしまいそうになるのだが、この質問には独特な「ややこしさ」があることも理解してほしい。その答えは京都だけにあるわけではないからだ。

 たとえば、その質問をこう言い換えれば、もう少しその「ややこしさ」が伝わりやすいだろうか。

「結局、京都は私に来てほしいのですか?それとも、来てほしくないのですか?」

 そう、その答えはあなたがどのような人かによるのだ。

 もはやミーム化してしまった京都の「いけず」であるが、一方で、京都で出会った親切の手厚さに驚く人も多い。洗練された一流の気遣いに「さすが、おもてなしの聖地」と感心されることもあれば、たまたま電車で乗り合わせた「京都のおばちゃん」の気さくな親切が旅の大切な思い出になることもある。しかし、「いけず」や「一見さんお断り」の文化と、そのような京都で出会う親切は矛盾するものではない。表裏一体のものなのである。

「一見さんお断り」文化とは、裏を返せば「おなじみさん」文化なのだ。商売において、店と客がより親密な関係を構築することを重要視する文化である。お互い顔の見える信頼関係のなかで、店と客が互いを育て合うことこそが長い付き合いを続けていく持続可能性の肝であるという知恵である。

 そのため伝統的に京都の人は「人を見る」のだ。信頼して付き合っていける「ちゃんとした人」かどうか、慎重に客を選ぶ。もちろん金離れの良さだけが「ちゃんとした人」の条件ではない。持続可能性を何より重んじる京都では商いにおいても、金遣いよりもっと大切にされていることはいくらでもある。

 だから、もしあなたが京都に来て、誰かに親切にされたのなら、それはあなたが京都にとって「ちゃんとしたお客さん」であったということである。「こんな人なら、また来てほしい」そう思われた証拠なのだ。「京都は観光客に来て欲しいのか?来て欲しくないのか?」そんな無粋な質問の答えもそこにある。

 京都観光モラルもレスポンシブル・ツーリズムも、そして「いけず」や「一見さんお断り」も、それらが問うているのは観光客に来てほしいかどうかではないのだ。

「あなたなら、また来てほしい」

 これまでも、そしてこれからも、問われているのは、あなたがそう思われる旅人であるかどうか。ただそれだけなのである。