“too emotional” 東京オリンピック・パラリンピック

 COVD-19感染をコントロールする優等生とされた日本は、感染者数は下がっているものの予断を許さない状況のようである。アメリカから見ていると、何回も発令される緊急事態宣言、その他の対策などを真剣に受け止めることに倦んだ人々をコントロールできないのではないかと映る。それでも7月23日に開会式が予定されている東京オリンピック、その後のパラリンピックは国民の開催の是非を問う声が大きいなかで、寂しい進軍ラッパが鳴り続けている。

 スポンサーであるコムキャスト傘下のメディア大手NBCは、代表選考会などの模様を放映してはいるが、こちらの人々は東京オリンピックが7月の開催であることすら知らない人が多い。COVID-19から解放されつつある高揚感のほうが強い。現実的にみて開催を延期や中止はできないところまで事態は来てしまった。都合のいいことに緊急事態宣言を発した、ほとんどの都道府県で開催時期に合わせるかのように緊急事態宣言が解除された。

 クーベルタン男爵が唱えたオリンピック精神から離れ、オリンピックは商業ベースとなった。莫大な放送権をIOCに支払っている、NBCユニバーサルのジェフ・シェル最高経営責任者は、今回もビジネス上の成功はするだろう、とコメントしている。1940年に開催予定であった東京オリンピックは、日中事変により開催の辞退を余儀なくされた不幸な歴史がある。2回も開催を中止することは国の威信が許さないのかもしれない。また“TOKIO”と宣言されてから、大会の関係で残念なことがいろいろあった。”ケチがついた”と言ってもいい。それでもここまで来たことは、“日本人の決めたことやかならずやる”という謹厳実直な精神のたまもの、と言ってもいいかもしれないが。

 今回の大会は、そのスローガンを“United by Emotion”と言うらしい。なんだか英語ではわかりづらいが、大会開催が“too emotional”になり、精神力だけで目をつむって突入していくのではなく、”安心安全”に科学のデータと分析とのバランスをしっかりとられることを願ってやまない。科学的見地を無視して、感染爆発を引き起こしたアメリカがいい例である。2021年に延期が決まった当初、このオリンピックは人類がCOVID-19に打ち勝った証となる大会であると盛んに言われた。いろいろな問題があるなかで開催に突き進むのは賭けのようなものだ。そして仮に、その賭けに勝ったとしても、残念ながら人類がCOVID-19に打ち勝った証というスローガンは忘れたほうがよさそうである。とにもかくにも今大会が、1964年にアジアで初めて開催された東京オリンピック・パラリンピックのように、人々の脳裏に長く焼き付く内外のアスリートの活躍がみられる祭典となることを、ただひたすら祈るばかりである。

 

目に映る日本の姿は?

 緊急事態宣言が沖縄以外で解除されてはいるものの、いまだにCOVID-19の感染状況は予断を許さない状況だ。その最中さらにオリンピック・パラリンピックの開催に相当のエネルギーを割いて、危なっかしくジャグルしているようだ。

 東日本大震災時は、復興庁なども創設した経験があるにもかかわらず、なぜ横の連携ができる組織をつくらなかったのであろう? 独特な日本の行政の仕組みからそれは無理な話であったのか? 当初、日本は感染拡大を食い止めて各国の評価も高かった。しかし、今や欧米と比べ感染状況、ワクチン接種状況にはかなりの隔たりがある。

 日本は今まで薬害訴訟など不幸な出来事があり、ワクチンも含め薬品に対しての不信感がないとは言えない。そして、そのことが新薬の開発プロセスや認可プロセスを必要以上に硬直させていたかもしれない。今現在、日本は外国製のワクチンに頼るしかない。各国の対策、ワクチン接種のプログラムは把握していたであろうし、日本でそれが応用できるかと検討もされたことと思う。

 “打ち手”の確保や接種方法、会場の運営などに関してはもっと前から準備できたのではないだろうか? この準備にロケットサイエンスは必要としないと思う(これはアメリカ的英語表現)。何事にも用意周到で細かいことまで決めていく、日本人の特性を考えてもこの後手感は驚きである。

 

ワクチン接種が進んでいくなかで

 これから懸念されることとしては、ワクチンを接種した人と接種をしない人との溝がどうなっていくかである。COVID-19に感染した人やその家族、またリスク覚悟で医療現場の前線で活躍している人たちや、その家族に対しても差別、中傷誹謗の的にする。顔の見えない残酷さを社会はもっていることを決して忘れてはならない。人の記憶は、自分の都合の悪いことはすぐに忘れるという機能をもっているのかもしれないが、そのような愚行ともいうべき行為で傷つけた心は、なかなか癒えないことを我々は自覚すべきである。

 ワクチン接種を義務付けないということは、社会が成熟したことを意味すると思う。宗教上の理由や何らかの健康上の理由で、“接種を受けたくても受けられない人”と、ただなんとなく“接種を受けたくない人”とは分けて対策を講じる必要があると思う。受けられない人たちをどう保護していくのか、また、受けたくない人たちへの啓もう活動は重要になってゆくと思われる。

土曜日の朝、ファーマーズマーケットもマスク姿の人はまばら

 ワクチン接種証明(ワクチンパスポート)は、これからの海外旅行に必要となってくる。その昔、黄熱病などの予防接種をしたように。イエローカードをディジタル化したものが恒久化するのではないだろうか? そういった分野での国際規範ルールづくりに日本が積極的に参加することが必要であり、日本独自の標準が、世界標準と違うということだけは避けなければならない。

 ニューヨークから日本に行く場合、日本政府が指定した検査方法で書式にのっとって陰性証明が発行されていないと搭乗できない状況だ。日本到着時に日本人であっても入国拒否され、強制送還になった事例もある。日本の書式で発行してくれる医療機関は、ニューヨーク市内に数か所あるだけである。そのため、日本行きのすべての手続きを有料で代行をする業者まであらわあれている。日本は、われわれ海外に住み暮らす日本人にとって遠い国のままである。

 

無用の用

 今回のパンデミックでは、アメリカや日本を含む先進国の感染症を含む公衆衛生、ワクチン行政の脆弱性が露呈された。先進医療、難病治療への研究に予算をさき、ノーベル賞を取れる研究に専念していたことは決して間違いではないが、その反面、地味な研究には政府もマスコミも関心がいかない。日頃から公衆衛生の面で平和を享受してきた先進国にはSARS、MERDS、エボラ出血熱などは、対岸の火事と受け止めていたのではあるまいか。先月、日本もワクチンの研究や製造にようやくしっかりとした戦略策定に着手し、予算を付けることを表明したことは歓迎すべきであろう。また、将来のパンデミックに備えるためのグローバルレベルでの透明性の高いモニタリングシステムの構築や、研究のプラットフォームをつくり、ワクチンが戦略物資とならないようにしなければならないという自覚が必要ではあるまいか。

 

日本語の限界 “Too good to be true”

 日本の指導者の言葉は丁寧なお願いベースである。日本の社会は良くも悪くも決められたことは集団で守り、その集団から逸脱することを嫌う精神があり、また、すべて事細かく決められなくても阿吽の呼吸で理解できるという、特殊な能力を持ち合わせている。しかし現状をみると、丁寧で遠慮がちな言葉によるお願いで通じていた社会は、すでに瓦解し始めているのではないだろうか? 今までこういう場で使ってきた日本語では限界があるような気がする。

 本当に危機的状況であればそれなりの言葉で表現し、それなりの行動を指示すべきではないだろうか? 日本の政治家は、声をからして拡声器で公約を伝え、投票をお願いする。選挙は必死である。街宣車から、COVID-19での協力を必死に呼び掛けた政治家はいたのだろうか? “お上”の言葉と行動には必死さがなければ庶民はついてこない。

 日本のニュース番組で記者会見を観ていると、言葉や身体表現が豊かな国に長くいる私には、あまり表情のない顔から発せられるメッセージはクリアに伝わってこない。普段、日本語を使っていないからそう感じるのかもしれないが、あまりにも語彙の豊富な日本語は、会見者が、いったい、いつまでに、なにをどう具体的にするのかわからない。

 COVID-19パンデミックになって以来、ニューヨーク州知事や市長は必死の形相で、時には語気を荒げて感染を抑え込む方策を力説し、人々に従うよう“命令”を発した。強引とも思える罰則を科してまで感染対策の実施を行った。難解な医学用語は使わず、だれでもわかる言葉で説明をしていた。そこに“お上”の高札を見てそれに従う庶民という社会があった日本と違い、為政者と市民の垣根はない。全員でなんとかしなければ収まらないという、一体感をつくるエネルギッシュなコミュニケーションがある。

 多種多様な文化や習慣をもった人種の集合体であるニューヨークは、やはり密なコミュニケーションが必要であるのだと感じた。また、制限解除は日本に比べ非常に慎重なものであった。ワクチン接種と制限解除を両輪として対策を進めたことは賢明だった気がする。

 日本はどうであろう。最初は感染の抑え方が比較的うまくいったからかもしれないが、ワクチン接種の計画の発表もない時に“GO TO TRAVEL”や“GO TO EAT”が進められたことは、私にはうらやましくもあり、”TOO GOOD TO BE TRUE"という感じもした。

6月はLGBTQの月であった。街のウィンドウディスプレイもレインボーカラーでサポートしていた

 ウサギではなく“のろまなカメ”であったニューヨークの街は、今ではマスクをする人も少ない。アリーナでも観客の人数制限はない。多くのレストランやバーも通常営業ができ賑わいを取り戻した。これから夏休みにかけてますます本来のニューヨーカーに戻っていく実感をもっている。日本もワクチン接種が加速している。アメリカと同じように接種率を早急に上げていくことが急務となるであろう。

 

制限のなかで“Freedom”と“Liberty”を考える

 英語にはFreedomとLibertyという言葉がある。ニューヨーク市のハドソン湾には有名な自由の女神がある。Statue of Libertyと言う。アメリカは、様々な貧困や迫害などから逃れてきた移民がつくった法治国家であり、この自由・開放(Liberty)という言葉の意味は非常に重い。この国では、自由は自分たち自身で獲得するものであることを知っている。そのために市民ひとり一人がCOVID-19から解放(Liberty)される日が来るまで、自分の”好き勝手にできる自由”(Free)を犠牲にできる強靭さと潔さとを持ち合わせている。パンデミックを経験している我々ひとり一人が、忘れがちなこの二つの言葉の意味を今一度考える必要があるように思う。