文=青野賢一 イラストレーション=ソリマチアキラ

 19世紀の終わりから20世紀前半にかけての様々な技術の発明と進歩が、人々の生活に多大な影響を与えたのは改めていうまでもないだろうが、そうしたテクノロジーは音楽においても表現上の新たな可能性をもたらすこととなった。すなわちエレクトロニクスの使用である。エレクトリック・ギターやエレクトリック・ベースなど、弾いた音を電気的に増幅させる楽器(と増幅装置であるアンプ)は、より広範なスペースでより多くの人に音楽を届けることを可能にした。また、こうしたアコースティック楽器の電化だけでなく、エレクトロニクスの進化は、それまで存在しなかった楽器も誕生させた。その代表的なものがシンセサイザーである。

 「音が聞こえる」ということは端的にいえば空気の振動だが、その空気に該当する部分を電子回路を使って電気信号に置き換えるのが電化楽器。たとえばエレクトリック・ギターなら弦を弾いた振動が電子回路を経由して「ギターの音」として出力されるが、シンセサイザーは、既存の楽器の電化とは異なり、様々な電気的波形を合成する(synthesize)ことで音を作り出す装置だ。

 

クラシック音楽とテクノロジーの出合い

 シンセサイザーは、1970年代あたりからポピュラー・ミュージックにおいて盛んに使われるようになったが、それ以前は現代音楽の分野で用いられることが多かった。20世紀における西洋クラシック音楽の拡張と進化に、シンセサイザーは大いに貢献したのである。今回ご紹介するスザンヌ・チアーニ(Suzanne Ciani)はアメリカの電子音楽家、作曲家、鍵盤奏者。1946年にインディアナで生まれ、マサチューセッツで育ったチアーニは6歳からピアノを始め、クラシック音楽を学んだ。マサチューセッツのウェルズリー大学でリベラルアーツを専攻しつつ、夜間にはマサチューセッツ工科大学で音楽テクノロジーを勉強。ウェルズリー大学卒業後の1968年から1970年の間はカリフォルニア大学バークレー校で作曲を専攻し、修士号を得ている。

 

コカ・コーラのサウンドロゴもシンセで

 バークレー校時代にモジュラー・シンセサイザーのパイオニアの一人であるドン・ブックラと出会ったチアーニは、彼の開発したシンセサイザー〈Buchla〉に魅了される。このことが電子音楽の道を歩むきっかけとなり、以後、現在に至るまでこの分野の第一人者として活躍している。コカ・コーラの瓶を開けてグラスに注ぐ音(もちろん〈Buchla〉で作っている)をはじめとするCMの仕事や、ピンボールマシン・ゲーム「Xenon」の音(ゲーム中、ボールが弾かれたり得点が入ったりすると鳴る電子音)とゲームスタート時のアナウンス(ボコーダーを用いて自身の声を変調させている)、ハリウッド映画において女性作曲家が初めて単独で音楽を務めた『The Incredible Shrinking Woman』(1981年)など、多岐にわたる活動を行ってきたチアーニ。近年もジェノヴァでのライブパフォーマンスを収録した『Improvisation On Four Sequences At Festival Antigel』(2020年)や、未発表となっていたサウンドトラック『Music For Denali』(2020年。録音は1973年)をリリースするなど、実に精力的だ。

 

素敵に年齢を重ねたファッション

 チアーニの公式アカウントをはじめ、YouTubeには彼女の様々な時代の映像が存在しているが、それらを観る限り、活動の初期すなわち1970年代あたりはTシャツ姿が目につく。取り立てて着飾るわけでなく、その当時の若者らしいカジュアルな装いだ。時代が下るにつれ、そのファッションはワンピースなどの落ち着いたものへと変化してゆき、近年ではモノトーンを基調としたシックな着こなしである。シンセサイザーでなくピアノを演奏する際はきちんとドレスを着用していることも多く、そんなところからはクラシック出自ということが伝わってくるが、いずれにしても現在までの彼女の映像では、素敵に年齢を重ねてきたチアーニの姿を見ることができる。

ヒッピー・ムーブメントにおけるシンセ

 さて、ここでシンセサイザーの黎明期に話を少し移すと、1960年代後半に花開いたヒッピー・ムーブメントは、’70年代に入ると希釈されつつ様々な局面において定着してゆくのだが、シンセサイザーはたとえばヒッピー・ムーブメントにおけるLSDによるサイケデリックな作用の聴覚的表現や、仏教的な瞑想体験へと誘うドローンに活用されることも少なくなかった(ちなみに前者はサイケデリック・ロックや、のちのアシッドハウス、レイヴ・カルチャーに引き継がれ、後者はニューエイジ、ヒーリング・ミュージックなどの礎となる)。

 「RED BULL MUSIC ACADEMY」の「INSTRUMENTAL INSTRUMENTS: BUCHLA」という記事によれば、チアーニ愛用の〈Buchla〉の創始者ドン・ブックラについて、以下のように記されている。「サンフランシスコに拠点を置いていたDon Buchlaが天啓を授かったのは、LSDを取り入れた新しい哲学の模索をしていた時、つまり、Grateful DeadとKen KeseyのMerry Prankstersの幻覚ツアーに帯同し、彼らのサウンドデザイナーを担当していた時だった」(Aaron Gonsher執筆、Tokuto Denda訳、2017年1月13日付)。グレイトフル・デッドの結成は1965年で、彼らが参加したケン・キージー率いる「メリー・プランクスターズ」のバス・ツアー(各地でアシッドテストを実施したツアー)はおそらく1966年の回であり、ブックラが〈Buchla〉の「100シリーズ」をクリエイトしたのが1963年と、この記事には年代のズレがあって正確さに欠けるが、その頃のムードは感じとることができるエピソードだろう。ブックラは1937年生まれなので、1967年で30歳ということになる。

 

熟練と想像力が素晴らしい音楽を生む

 1960年代半ばのブックラの年齢なら、ヒッピー・ムーブメント、LSD体験にどっぷりというのは頷ける話だが、一方のチアーニは1946年生まれで、もともとはクラシック音楽がベースにある。そんなところから、チアーニの手がける音楽は、先に述べたLSDの作用の聴覚的表現や瞑想音楽としてのシンセサイザー音楽、そしてポピュラー・ミュージックへのアプローチという道とは異なる、ユニークなものになったのではなかろうか。未知なる音と出合うことができ、また目指す音を生み出すことができるシンセサイザー––––とりわけ〈Buchla〉のような鍵盤のないモジュラー・シンセ––––は、演奏者の熟練と想像力が非常に重要なわけだが、現在もなおイメージの枯渇を知らないスザンヌ・チアーニの活躍ぶりには驚くばかりである。