帰国、そして「マーキス」設立へ

 その後独立した川口さんは、ロンドンでフリーの職人として活躍。「ガジアーノ&ガーリング」をはじめとするいくつかのシューメーカーの仕事を手がけることになる。その後、ロンドンの「ジョージ・クレバリー」の職人だった奥様と結婚して帰国することになるのだが、面白いことに帰国後もしばらくそれらのメーカーとは仕事を継続していたという。つまりロンドンで注文した靴をメーカーが日本に送り、川口さんが仕事をして再び送り返す、という恐ろしく手間とコストのかかる靴づくり。彼の実力がどれほどロンドンで評価されていたのか、推して知るべしである。

木型にアッパーを吊り込み、数日間寝かせてなじませた上で底付けに入る

 「向こうは実力主義で、タイミングにもよりますが上手ければちゃんと評価してくれるんです。特に『ガジアーノ&ガーリング』をはじめとする新興勢力はその傾向が強かったですね。トップが職人であったことも大きいと思います」

 日本人は総じて手先が器用だから、イギリスでも高く評価されているのでしょうか?という僕の質問に対しては、こう答える。

 「おそらく平均値は高いと思いますが、靴でも料理でも、向こうには突出してすごい天才がいますから、井の中の蛙にならないように、気をつけないといけないんです。あとは環境。技術は練習すれば上手くなれますが、やはりその国の美的感覚を吸収するというのは大切です。日本に帰ってきてたくさんの情報に囲まれてしまうと、知らないうちに影響されてしまう。イギリスにいた頃の純粋な気持ちを保って靴をつくりたい、と今でも心がけています」

アッパーと中底(ミッドソール)、本底(ソール)とをつなぐパーツ、ウェルトを縫い付ける工程。これを手縫いで仕上げたものがいわゆる「ハンドソーンウェルト製法」で、足なじみのよさや修理のしやすさなど、様々なメリットがある

 

ライバルはヴィンテージ!

 2011年に東京に拠点を移し、「マーキス」という工房を開設した川口さん。ほどなくその実力は周囲に認められることとなり、海外からこの工房だけを目指して日本を訪れる数寄者も続出。現在は銀座に工房を移し、奥様とふたりの職人とともにビスポークシューズをつくり続けている。

 その理想は、英国で1930年頃につくられたヴィンテージ靴だという。

 「この時代の英国靴は本当にすごいモノが多くて、なんとかそこに追いつきたいんです。皆さんに評価してもらえるのは嬉しいのですが、それって現代のブランドやシューメーカーとの比較じゃないですか。僕はそういうのは全く気にしていなくて、あくまで基準は〝1930年代のイギリスに自分のお店があったら戦えるか?〟。だから結局は自己満足の世界なんですけれどね」

英国のアンティークを中心に、古典的な道具を駆使してつくられる「マーキス」のビスポークシューズ

 その魅力って一体なんですか?

 「当時のイギリスにはたくさんのシューメーカーがあって、聞いたことのない独立系メーカーでも、ものすごい靴をつくっていたりします。バランスとか雰囲気とか、バラしてわかることもあれば、言葉にできないことも多いのですが。クラシック音楽って、同じ曲でも誰が演奏するかによって全く違ったものになりますよね? 当時の英国靴もそれと同じで、同じオックスフォード(紐靴)でもメーカーによって、全く違った表現をしているのに、不思議とそれぞれが英国的なんです。だから僕も何かの模倣ではなく、自分なりの英国靴をつくって、それが後世の人に、そういった面白いシューメーカーのひとつ、と語られたらいいな、と思っています。ただもちろん全盛期の職人に習うことは、もうできません。歴史のある名門に技術が継承されているといっても、少しずつ変わってきていますから、今残っている古い靴を見ないと、本当の技術はわからないんですよね」

熱したこてを使い、ソールを焼き締める作業。ウエストの部分は特に丸みをつけ、定評のある美しいくびれを強調する

ウィメンズのパターンオーダーから学んだこと

 1930年代の古い靴を第二の師匠と仰ぎ、東京の工房で誰よりも英国らしい英国靴をつくる川口さん。近年そのオーラは紳士靴愛好家のみならず、ファッション業界で活躍する女性たちをも魅了しはじめている。「アーツ&サイエンス」で名高いスタイリスト、ソニア・パークさんもそのひとり。彼の靴を気に入り、幾度となくビスポークを重ねたソニアさんは、自らのショップでウィメンズ靴のパターンオーダーを開始した。川口さんはそんな新しいチャレンジに生き生きと取り組んでいる。

 「ビスポーク靴の世界をウィメンズでパターンオーダーに落とし込むことなんて、相当な志がないとなかなかできません。履き心地の感覚が男性とは全く違うので難しいのですが、女性のお客様はディテールではなく全体で評価してくれるのが、嬉しいんです。ソニアさんに出会ったからこの靴ができたな、というモデルをいつかつくりたいですね」。

ウィールを使って、コバの部分に刻みを入れる作業。出し縫いの糸を目立たせず、よりエレガントに見せる効果がある

 2020年のコロナ禍によって、大きなダメージを受けた紳士服業界。外国人が日本に来られなくなったことや、人々のライフスタイルが変わった影響は決して小さくはないが、いたずらに規模を拡大することなく地道に商売を続けてきた「マーキス」には、それでも最高の1足を求める顧客たちが引きもきらない。

 「今年感じたのは、真面目にやっていたらお客様はちゃんと見てくれる、ということです。僕は技術を突き詰めていくことに面白みを感じるタイプなのですが、それがお客様には誠実だと思っていただけるのかもしれません。だから時代が変わったからといって、焦って何かを変えるつもりもありません」

工房に吊るされた無数のラストが、「マーキス」の歴史を物語る

 移ろいやすい世間からの評価やお金ではなく、「1930年代の英国靴」という絶対的な価値観こそが、川口さんの目標でありライバル。きっと彼の挑戦が終わる日は来ないのだろうが、僕はそのことがなぜだか羨ましい。だって一生成長し続けられるのだから! 社会の荒波に流されがちな僕は、職人という存在に心から憧れている。