本家がフェイクとコラボレートする時代

 同じころ、アレッサンドロ・ミケーレが率いるグッチは、「ダッパー・ダン コレクション」を発表する。ダッパー・ダン(Dapper Dan)とは、1982年から1992年にかけて、ニューヨークのハーレムを拠点にブランドファッションの華麗な海賊版を作り、「ブートクチュール」なるジャンルを生んだアフリカ系アメリカ人のデザイナーである。誇張やひねりが加えられたブランド海賊版は、当時のヒップホップ界のスターやボクサーらの間で人気を博したが、最終的にはブランド側に訴えられてビジネスを閉じた。

 グッチは、2018年、ほかならぬそのダッパー・ダンとコラボレーションをおこなったのである。グッチにとってのダッパー・ダンは、かつて違法に自分のブランド価値を毀損した人物なのだが、その過去を水に流すというよりもむしろ面白がることで、自らの太っ腹ぶりを示したということになるだろうか。あるいは毀損された過去すらも自らの利益のネタとして取り込もうとした高度なリベンジか。ちなみにグッチはこのコラボレーションを「ファッションサンプリングの比類ない例」と自賛している。

 ブランドにとっては目の敵である海賊版を「リスペクト」し、本物がニセモノとコラボをやってのけるという前代未聞のできごとに押され、ブートレグ風ファッションを「かっこいい」と見做す風潮まで生まれた。2019年に大ブレイクしたビリー・アイリッシュが着るオーバーサイズの服には、正規品では見たことのないルイ・ヴィトンやシャネル、グッチのロゴマークが派手に並ぶ。ビリーのためにカスタムメイドされたそうだが、ブランドの認可を得ているわけではない。正規品ではないとして訴えられるわけでもない。ただスルーされている。自他ともに「ルールブレーカー」であるアイリッシュが着る服に関しては、本物かニセモノかという基準はどうでもいいのかもしれない。

 グッチのカタカナロゴ時計は、このような流れの延長に位置づけてみることができるのではないか。この時計が象徴するような、2016年頃から現在まで進行しているモードのトレンドの一つは、次のように整理できる。

 本物の退屈より、フェイクの刺激。
 正統の美しさより、衝撃を覚える醜さ。
 正しさより、誤用。
 ストレートな表現より、悪趣味すれすれの皮肉。
 エレガンスより、怒りや失笑の挑発。

 

時代を挑発する、新しいアートの概念

 こうしたフェイク・誤用・悪趣味礼賛の風潮を観察していて連想したのは、1920年代にココ・シャネルが生み出したコスチューム・ジュエリーである。

 コスチューム・ジュエリーとは、「本物」とメッキの偽物をミックスして作り上げたファッションジュエリーである。「本物」の貴金属や宝石だけをありがたがり、資産価値を誇示する上流階級の価値観に対し、シャネルは「首から財産をぶら下げて歩くなんてダサいわ」という旨の評価を下した。資産価値とは無関係に、アクセサリーを自由に楽しむことこそがモダンでファッショナブル、という風に価値を転覆したのがシャネルであったのだ。

 愛人の資金援助から「のし上がった」孤児シャネルは、どんなに成功しても、上流階級のソサエティから締め出されていた。高価格をつけて売るコスチューム・ジュエリーは、自分を認めようとしない上流階級へのリベンジでもあった。

 最初の動機は何であれ、コスチューム・ジュエリーはアクセサリーの意味を変えた。富の誇示から、モダンなセンスの誇示へ。その結果、ジュエリーデザインの可能性は格段に広がった。 

 現在のフェイク・誤用・悪趣味礼賛は、何を意味し、どこへ向かうのだろうか。

 もしかしたら、「多様性と包摂」の必要性が謳われる中、フェイクや悪趣味もまた包摂しようという空気が醸成されているのだろうか。

 まだしばらく観察の必要があるが、興味深いのは、このトレンドを先導するグッチやバレンシアガを傘下に擁するケリンググループが、SDGsにおいて模範的企業である、少なくともそうあろうとしているということだ。サステナビリティや女性のエンパワメント、環境保護や歴史遺産の保護において、ケリングはモード界のリーダーシップをとっている。ケリングはまたアートにも積極的に関わっているので、もしかしたらフェイクや悪趣味もまたアートの一種とみなしているのかもしれない。実際、最近のアートにもこのような傾向が散見される。

 こうした企業姿勢を見てからあらためてフェイク包摂のトレンドを見ると、社会的善をアピールすることで企業価値を高めている企業の大きな手のひらの中で、時代を挑発する才能を持ったクリエーターが自由奔放に消費者を翻弄している図のようにも見えてくる。