美しき少女は、いかに呼ばれてきたのか?

 ところで、私の書籍に対して、「原題」記載がないと批判してきた連中(第1回参照)なら、作品タイトルは、国際的に決まっていると信じ込んでいるようなので、多分、こう言ってくるに違いない

「何を、グダグタ言ってるんでしょうねぇ。日本語タイトルを問題にすること自体、ちゃんと、ものを考えようとする態度が感じられません。マウリッツハイス美術館の所蔵作品なんだから、当然、所蔵先のタイトルを、そのまま翻訳しているはずですよねぇ。要するに、美術館の『原題』が変わったから、それを翻訳した日本語タイトルが変わったに決まっているじゃないですか」

 ブブー、はい、残念でした。筆者は、どこかの国の公共放送でも、5歳児でもないので、「ボーと生きている」として、下品な言葉で「生き方」までは、否定はしませんが、全面的に間違っています。もとの日本語タイトルは、収蔵館のタイトルを翻訳したものでもなければ、マウリッツハイス美術館のタイトルが変わったから変えたわけでもありません。

 実際問題、1984年に本作が初来日した時のカタログには、英文タイトルで、『Head of a Girl(少女の頭部)』と記載されている。これは、マウリッツハイス美術館から提供された英文資料に基づくものだと明記されているから、この時点で美術館が正式に採用していたタイトルは、『少女の頭部』だったのだ。しかし、なぜか日本語タイトルは、これを『青いターバンの少女』としていたのである。

 さらに、マウリッツハイス美術館では、1995年までに、本作の正式タイトルを、現在のものと同じ『真珠の耳飾りの少女(Meisje met de parel)』に変えている。これは、同年末から始まったワシントン・ナショナル・ギャラリーと翌年、マウリッツハイス美術館で開催された巡回展でのカタログからも、明らかである。にもかかわらず、日本では、2000年の大阪展でも、『青いターバンの少女』として紹介していたのである。但し、カッコ書きで、(真珠の耳飾りの少女)と書いたのは、やはり、収蔵館のタイトルを無視できなかったからだろうか。いずれにしても、本作の日本語タイトルは、初来日以来、2000年までは、あくまでも『青いターバンの少女』で通ってきたのである。

 では、なぜ、日本と海外で、こうしたタイトルの齟齬が生まれてきたのだろう。海外でのタイトル変遷を歴史的に振り返ることで、その謎に迫ってみよう。まずは、恒例となった? 財産目録である。1675年に画家が亡くなり、その後に作られた財産目録には、「トルコ風に描かれた2枚のトローニー」の記述があり、その1枚が本作だという。さらに、1696年のオークション・カタログで「非常に型破りな、古風な装束のトローニー」として紹介されているのが本作だといわれている。

 トローニーとは、もともとオランダ語で「頭部」や「顔」を意味する言葉で、絵画においては、不特定の人物の胸像や頭部を描いたものである。フェルメールの他の作品でいえば、『若い女』(図2)や『赤い帽子の女』(図3)が、これにあたる。いずれも、特定の人物を描いた肖像画ではなく、もともとは聖書や神話などの場面を描く際、習作として描いていたものが、単独の人物像として作品化したものだ。本作も、異国の風俗であるターバンを巻いていていることから肖像画ではないことは明白である。まさに「トルコ風に描かれたトローニー」という記述は、この作品を端的に表現したもので、同種の作品と区別できない恨みはあるが、仮のタイトルとしては、なかなかのものである。

(左)図2:ヨハネス・フェルメール『若い女』1666~67年頃、キャンヴァスに油彩 メトロポリタン美術館 (右)図3:ヨハネス・フェルメール 『赤い帽子の女』1665~66年頃、板に油彩 ワシントン・ナショナル・ギャラリー

タイトルに表れた日本の開催者の矜持

 しかし、その後、「トローニー」といった作品種別で、タイトル化されることはなく、『少女の頭部』や『若い女』のタイトルで呼ばれてきたようである。現在の所蔵館であるマウリッツハイス美術館が、この作品を取得したのは、オランダ陸軍軍人で、コレクターでもあったアルノールダス・アンドリス・デス・トンベが1881年にハーグで開催されたオークションでこれを購入し、1902年の彼の死後、寄贈されてからである。では、この収蔵以降、本作は、海外でどう呼ばれてきたのだろう。

 コロナで図書館が使えないので、手元にある資料やネット情報だけで申し訳ないが、とりあえず、めぼしいフェルメール関連の出版物(英、仏、伊)において、記載されたタイトルを、年代順に、ざっとあげてみよう。すると、以下のようになる。

『若い女』(1908)、『ある若い少女の頭部』(1929)、『ある少女の頭部』(1940)、『少女の頭部』(1952)、『ターバンの若い女』(1952)、『ターバンの女』(1966)、『ターバン(または、真珠の耳飾り)をした少女の胸像(または、頭部)』(1967)、『ターバンの若い女』(1974)、『真珠の耳飾りの少女』(1975)、『真珠の耳飾りの少女の頭部』(1976)、『ある少女の頭部』(1979)、『真珠の耳飾りの少女』(1995)。

 つまり、当初は、「少女の頭部」といった表現だったものが、1950年代から1970年代半ばまで、「ターバンの少女」が優勢となり、さらに、1960年代末に登場した「真珠の耳飾りの少女」が1975年以降に主流となっていったことがうかがえるはずだ。

 では、日本においてはどうだろう。こちらも、手元にある資料だけで申し訳ないが、『少女の像』(1972)、『ターバンの少女』(1975)、『真珠のイヤリングの少女』(1989)、『青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)』(1991)と、タイムラグはあるが、ほぼ海外書籍の記述に連動して様々に呼ばれてきた。

 しかし、その一つ一つをよく見ると、翻訳者が海外書籍から直訳しただけのものと、日本の研究者が、既存タイトルを吟味してつけたものに分かれるようだ。例えば、海外の研究者の多くが、単に「ターバンの少女」と呼んできたにもかかわらず、日本では「青いターバンの少女」が主流になっていく。これは、貴重な天然石ラピスラズリから生まれた青絵具「ウルトラマリン」で彩色された鮮やかな青色を強調してのことだろう。

 さらに、こうしたタイトル変遷からみえてくるのは、マウリッツハイス美術館が、1995年までに、『少女の頭部』や『ターバンの少女』ではなく、『真珠の耳飾りの少女』に変更した理由である。多分、70年代半ば以降、研究者の間で主流となっていた「真珠の耳飾り」のタイトルに準じたからである。

 そうしてみると、逆に、海外の潮流に流されず、『青いターバンの少女』のタイトルを固持した2000年大阪展の開催者たちの矜持たるや、さすがだったといえないだろうか。すでに、多くの海外研究者が「真珠の耳飾り」をタイトルに採用し、所蔵館ですら、タイトルを変えていたにもかかわらずである。それは、前回の私的タイトル術でも説明したように、日本国内での展覧会や書籍など、これまでに使用されてきた既存タイトルとの整合性やインデックス機能を重視したからである。

 但し、世界の潮流を完全に無視することはできず、1991年頃から登場していたカッコ書きで(真珠の耳飾りの少女)とする表記を採用したのだろう。この妥協策により、日本国内でのタイトルは、ひとまず、『青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)』で落ち着くかにみえたのである。ところが、事態はこれで収まらなかった。世界の潮流を加速させた原因がもう一つあったからだ。

 次回は、この後、国内でのタイトルを完全に変えてしまった決定的な「事件」を取り上げるとともに、両者のタイトルの問題点に迫ろうと思う。