管仲は、のちに斉という国の総理大臣(宰相)に上り詰めた人物だが、若い頃は友人の鮑叔を裏切ってばかりだった。しかし鮑叔は、管仲とのつきあいをやめようとしなかった。

「私と一緒に商売をしたとき、私の方が利益を多めに取ったのに、鮑叔は何もいわなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。私が鮑叔のためにしたことが、かえって鮑叔を追い詰めたことがあったが、鮑叔は私を愚か者だとは言わなかった。物事は、うまくいくときとそうでないときがあることを知っていたからだ。戦争に出兵して逃げ帰っても、臆病者だとは罵らなかった。私に年老いた母がいることを、鮑叔は知っていたからだ。父母以上に私のことを理解しているのは、鮑叔だ」
 

 鮑叔は、必ず管仲がとてつもない人物に育つと信じていた。途中で何度裏切られても、その信頼が揺らぐことはなかった。裏切られても「信じる」とは、どうやら、個々の行為が「期待」どおりになることを意味するのではなく、「この人はきっと、ひとかどの人物になる」という、ある意味、あいまいな信頼を寄せているマインドセットのようだ。

 こうした信頼には、人間は応えたくなるもののようだ。何度失敗しても、決して見放さない。「大丈夫、信じてる。あなたはきっと、ひとかどの人物になる」と思われていると、なんとかして、その信頼に応えたくなる。

 たぶん、この信頼は、「ひとかどの人間」にならなくても、「裏切られた!」などとは言わないだろう。金八先生から「信じられた」生徒たちは、ごく普通の大人に成長しただけだとしても、「立派な大人に成長したなあ!」と驚き、喜んでくれると知っているだろう。だからこそ。だからこそ、もっと驚かせたい、喜んでもらいたいと願うのではないか。

 管仲もおそらく、鮑叔の信頼になんとか応えたいと願ったはずだ。鮑叔は、管仲がもし成功しなかったとしても、責めることはなかったろう。それもまた人生、十分お前はがんばったよ、と、どのような人生を歩もうと、驚き、喜んでくれたことだろう。だからこそ、管仲は「もっと驚かせたい」と願ったのではないか、と思う。

 どうやら、「信じる」という言葉はしばしば、「期待する」とほぼ同じ意味で使われることがあるらしい。「信じる=期待する」の場合、個々の行動や結果を「期待」しており、期待した行動をしなかったり、結果が出なかったりすると腹を立てたり、落胆したりする。こうなると、子どもも大人も、「驚かす」ことができず、落胆ばかりされるので、モチベーションがダダ下がりになる。