画風を次々に変え、作品のヴァリエーションも多いマティスを理解するのはなかなか難しいでしょう。今回はデビューした30歳代から50歳代まで、画家としての前半生を、3つのキーワードに沿って紹介します。ここからマティスの真の姿が浮かび上がります。

文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)

《ダンスⅡ》1909-10年 油彩・カンヴァス 260×391cm サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館

マティスと当時の「サロン」

 まず、マティスのデビューや成功とも深い関わりがあり、当時の美術界で大事な役割を果たしたサロンについて解説しましょう。

 フランスのサロンの歴史は17世紀、王立アカデミーに付随する公式の展覧会「サロン(官展)」が発足したことにはじまります。当初、アカデミー会員以外は参加できなかったのですが、1789年のフランス革命によって制度が変わり、会員以外の芸術家でも審査を通れば参加できるようになります。

 しかし、審査が厳しかったため1863年、エドゥアール・マネの《草上の昼食》(1862-1863年)など、サロンに拒否された画家たちの作品が出品されて話題になった「落選者展」や、1874年に始まった「印象派展」が開催されるようになります。1881年にサロン(官展)が国家の直接の運営を離れたことから組織がふたつに分かれ、国民美術協会の「ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール」が設立されます。ここには初めて、工芸部門も設けられました。

 無審査で参加ができる展覧会として1884年「サロン・デ・アンデパンダン」が、1903年には「サロン・ドートンヌ」が創設されます。「サロン・ドートンヌ」は「秋のサロン」を意味するフランス語で、春に開催される「サロン(官展)」に対抗してマティスやルオー、ナビ派の画家エドゥアール・ヴュイヤールらによって組織された展覧会です。

「サロン・デ・アンデパンダン」とともにフォーヴィスム、キュビスムなど、新しい画家たちの登場の場となりました。また両サロンは、スーラ、セザンヌ、ゴーガンなどの回顧展を催して若い画家に伝え、近代美術の展開に重要な役割を果たしました。

 マティスは1901年から「サロン・デ・アンデパンダン」に、1903年から「サロン・ドートンヌ」に出品し、前回紹介したように1905年の「サロン・ドートンヌ」でフォーヴとして注目されました。

1905年開催のサロン・ドートンヌのカタログ

 

「パトロン」によって生み出された傑作

 1905年に開催された「サロン・ドートンヌ」にマティスが出品したフォーヴィスムの代表作《帽子の女》(第1回参照)を購入したのは、美術コレクターのレオ・スタインでした。画家を目指していたレオ、小説家の妹ガートルート、長男のマイケルのスタイン兄妹は、パリで暮らす裕福なアメリカ人です。世間では悪評だったマティスの作品を美術界で有名だった彼らが多く購入したことから、ほかの画商やコレクターもマティスに注目するようになります。

 マイケルの妻サラはマティスに画塾を開くことを勧め、援助をしています。この「マティス・アカデミー」には諸外国からが学生が1000人も集まりましたが、マティスは自分の制作に集中するため数年で閉じてしまいました。また、スタイン家で知り合ったアメリカのコーン姉妹は、マティスの晩年まで長期にわたり作品を買い続け、所有していた約40点の油彩画などをボルチモア美術館に寄贈しました。

 ロシアの実業家セルゲイ・シチューキンとイヴァン・モロゾフもマティスの有力なパトロンとなります。とくに1908年以降、シチューキンは最大のパトロンとなり、自邸のために注文した壁画《ダンスⅡ》(1909-10年)、《音楽》(1910年)はじめ、《画家の家族》(1911年)のほか、モロッコ旅行によって触発されて描いた「モロッコ三部作」など、重要な作品の数々がシチューキンの資金援助に支えられて生み出されました。ロシア革命で財産を失って亡命するまでの約10年間で、37点を購入しています。

《音楽》1910年 油彩、木炭・カンヴァス 260×389cm サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館

 このようなパトロンたちに支えられ、その注文に応えることによって、マティスは新しい挑戦を続けることができたといってよいでしょう。

《画家の家族》1911年 油彩・カンヴァス 143×194cm サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館

 マティスは海外の評判は得ても、フランスではなかなか評価されませんでした。しかし1909年、ようやくパリのベルネーム=ジュヌ画廊と専属契約を結ぶことができます。

 19世紀末から20世紀末にかけて、画商は芸術動向に影響を与えていました。その一つがベルネーム=ジュヌ画廊で、新進芸術家をプロデュースするなどして新たな芸術の動向に深く関わり、パリにおけるマティスの芸術の展開に画廊はなくてはならない存在でした。ベルネーム=ジュヌ画廊との専属契約により、国内でも徐々にマティスの評価が高まりました。

  余談ですが、1934年頃からマティスの晩年まで、モデルと制作助手をつとめたロシア人のリディア・デレクトルスカヤは、マティスの死後、膨大な作品を託されています。これらをエルミタージュ美術館とプーシキン美術館に寄贈したことで、ロシアは世界有数のマティスコレクションを所有することになったのでした。