文=藤田令伊
特徴を打ち出すことに成功した美術館
前回、オディロン・ルドンのすぐれたコレクションを有する美術館として岐阜県美術館をご紹介した。今回も似たタイプの美術館を取り上げたい。
長崎は出島の一角に巨大な二棟の建物からなるミュージアムがある。長崎県美術館で、岐阜県美術館と同様、県立の施設である。
都道府県立の美術館は、ともすれば“無難な性格”になりがちである。というのは、そもそも公立の施設なので、あまり突飛なことはできないし、加えて都道府県立というスケールがなにかとネックになるからだ。当たり前のことだが、都道府県は、国でもなければ、市区町村でもない。その中間的な位置づけがさまざまな制約を生む。
美術館に限らずだが、都道府県は国よりは小さいが、市区町村よりは大きい。そのため、国レベルのことはできずとも、市区町村よりは立派なことをしたいという強迫観念がつきまとう。だが、市区町村よりは予算があっても、国ほどはない。
市区町村であれば、開き直って、ちょっとゲテモノ的なB級路線で勝負するという作戦も可能だが、都道府県となると、体面という問題も絡んできて、なかなかそうもいかない。市区町村だと多少ピント外れなことをしても、「まあ、しょうがないか」と大目に見てもらえそうだが、都道府県だと「何をやってるんだ!?」と厳しい視線にさらされることになる。
といった事情で、中間的位置づけといえば聞こえはいいが、悪くいえば中途半端な存在なのが都道府県立なのである。かくて美術館も“山椒は小粒”路線は採りづらく、他方、壁をぶち破るほどの堂々たる王道路線も無理ということで、なかなか明確に特徴を打ち出せず、結果、“無難な性格”に落ち着いてしまうのである。どこも苦労している(近年では美術館建築で勝負しようとしているところが目立つ)。
そういう知られざる難しい状況があるなかで、長崎県美術館は特徴を打ち出すことに成功している。その特徴とは、スペイン美術のコレクションである。
初期の作品にも注目していた須磨彌吉郎
歴史的に長崎はスペインと縁の深い街である。これは負の歴史だが、1597年、豊臣秀吉のキリシタン禁止令によって西坂の地で26聖人が処刑されたが(その鎮魂のブロンズ像を舟越保武が西坂公園につくっている)、そのとき殉教した外国人宣教師6人のうち4人がスペイン人である。
あるいは、長崎が南蛮貿易の港町として栄えるようになったのも、コスメ・デ・トーレスというスペイン人宣教師が多大なる尽力をしたおかげであり、彼が事実上の立役者であった(ちなみに、この宣教師トーレスは西洋の価値観を無理に日本人に押しつけようとはせず、むしろ日本人の価値観や文化を自ら理解し順応しようという姿勢であったため、現在に至るまで多くの日本の人々から慕われている)。
長崎県美術館のスペイン美術コレクションはそうした歴史的背景を下敷きとしながら発展してきている。コレクションの母体となったのは、第二次大戦時に在スペイン大使を務めた須磨彌吉郎が現地で収集した作品群である。
驚くのは、須磨はかなり古いものまで注目していたことだ。絵画がまだひとつの芸術分野として独り立ちするかどうかという時期の作品も買い求めている。
《キリストの磔刑》も、そんな一枚である。作者は不詳で、カタルーニャ派ということしかわかっていない。絵としてはまだ成熟しきっていない、プリミティブなレベルの作品である。立体感に乏しく、構図も単純で、色彩については経年劣化のために何とも判断しづらいところがあるが、いずれにせよ、絵画芸術としては初期段階のものといわねばならない絵である。
だが、それゆえにこれを描いた人物の素直で純粋な信仰心が胸を打つ。妙な技巧に走ったり、こけおどし的な描法を用いたりしていないがこそ、神を信じ、神にすがったであろう素朴な気持ちが感じ取られ、発達し成熟してしまったものにはない飾り気のない魅力がそこはかとなく伝わってくるのである。
その感覚は、カタルーニャ美術館を訪れたときに感じたものと共通する。そこの作品を見ていると、真心から神を信じ、一心に祈ったであろう当時の人々の様子が彷彿とし、プリミティブであるがゆえの混じり気のない純真な心を看取することができるように思われた。長崎県美術館のスペイン美術コレクションは、本作のほかにも、そんな思いを追体験できる作品を数々含んでいる。
こういうコレクションが日本にあるというのは、かなり貴重なことである。長崎県美術館がスペイン美術のスペシャルミュージアムだということは、まだまだ多くの人(とりわけ長崎以外の人々)に知られていないかもしれない。しかし、ぜひ多くの人に日本にもこんな美術館があるということを知ってもらいたいと願うところだ。