自分のすべてを出しきった1000m

 世界屈指のオールラウンダーを育んだのは高校時代にある。中学3年生で2010年のバンクーバー五輪に出場した高木は、高校入学後、国内外の大会のさまざまな距離に出場し続けた。疲労を懸念した当時の指導者から欠場も考慮するようアドバイスされたという。それでも、レースに出ることをやめなかった。さまざまな種目に挑むことが成長のために必要と考えていたからだ。

 その思いは日本代表の主軸として活躍するようになってからもかわらない。

「多くの種目にトライするのが速くなる道だと感じています。純粋に全部速くなりたいという思いもあります」

 当時から今日まで、一貫した思いがあった。高木の意志の強さを示しているが、それを物語る事実はほかにもある。

 高校時代、先輩スケーターから、体が太いんじゃないかと指摘されると、好きだったチョコレートなど甘いものをほとんどとらなくなった。それは今日まで続いているという。速くなりたいという一心から、好物を断ち切り、しかも継続してきたという事実もまた、高木の意志の持ち方を表している。

 一途に取り組み、粘り強く進んできた末に、2018年平昌五輪では金銀銅のすべての色のメダルを獲得。ただ、金メダルは団体追い抜きでのもので、個人種目では優勝できなかった。それを課題に掲げて強化に励み、迎えた北京五輪の戦いぶりも、高木らしかった。

2022年2月17日、北京五輪、スピードスケート女子1000mで金メダルを獲得した高木美帆 写真=青木紘二/アフロスポーツ

 金メダルを獲得した1000mは、5種目の中では最後のレースだった。

「正直、体は限界に来ていて、疲労感というより、咳が出て、内臓がぎりぎりというところがありました」

 オールラウンダーとしていくつものレースをこなしてきたとはいえ、4年に一度の大舞台で大きな期待を寄せられる中、しかも団体種目でも中心的な役割を担いながらの5種目はさすがにハードだった。

 その中でも最終種目まで全うし、しかも疲労を覚えながら臨んだ最後のレースで念願の世界一に輝くことができた地力こそ、長年の積み重ねにほかならなかった。

「最後に自分のすべてを出しきることができました。もうこのレースで金メダルをとれなくても悔いはないと思えるくらいのレースができたことがすごくうれしいです」

 笑顔で語った言葉も、象徴的だ。

 1000mは最初に出場したバンクーバー五輪で35位に終わっている。そこからの金メダルは、12年の足どりを示しているようでもあった。

 今シーズンの最終戦を終えての、「ちょっと休む時間をとりたい」という言葉には前段がある。

「8年間、フルでやってきたので、いったん考える時間と休む時間が必要だと感じています」

 今シーズンではなく、高木はソチ五輪の日本代表を逃した2014年からを指して8年と語っている。ただその歩みを考えれば、8年間どころではなく、フルにやってきた、と捉えることができる。

 北京五輪での4つのメダルと平昌の4つを合わせて計7個のメダルを手にした高木は、夏冬のオリンピックを通じ日本女子最多のメダリストとなった。

 偉業を成し遂げた屈指のオールラウンダーは、この先のことはまだ決めていない。まずは休養をとり、その中でゆっくり考えていくという。そこにも率直な気持ちが表れていた。