文=小松めぐみ 写真=山下亮一
私は料理人になる!
荒木町で人気を誇る「御料理ほりうち」は、堀内さやかさんという女性料理人が2018年夏にオープンした日本料理店。旬の食材の良さを職人技で見事に引き出し、季節感あふれるコースに仕立ててくれる店だ。近ごろは女性がカウンターで腕を振るう店が増えているものの、スッポンやフグをさばくほどの技をもつ女性はまだ少数。それは飲食店の厨房が少し前まで男性の聖域だったからだろう。
堀内さんが調理師専門学校を卒業した20数年前の日本料理界は、女性の採用枠がほぼなかった時代。親の反対を押し切って調理師専門学校を出た以上、何としても料理人になると決めていた堀内さんは、苦労を重ねて東京の一流ホテルに職を見つけ、新宿の割烹では立板、煮方を務め、神楽坂の和食店では料理長となった。そんな堀内さんに修業時代の話を聞くと、聞いているだけで悔しくなるような逸話が次々と出てくる。そして、困難に負けずに志を貫く強さは、江戸時代の女料理人を描いた高田郁(かおる)の時代小説「みをつくし料理帖」の主人公を思い出させる。実際、堀内さんもこの小説を原作とするドラマを見たときは、自分の修業時代と重なったそうだ。
ここで少し「みをつくし料理帖」のあらすじを紹介しておこう。両親を亡くした天涯孤独の少女・澪(みお)は、地元大阪の有名料理屋の女将に拾われて料理人として育てられるが、火事で店を失い、江戸に出て蕎麦屋で料理を作るようになる。そして東西の食文化や嗜好の違いに戸惑ったり、女性だからと不当な扱いを受けて心を痛めたり、同業者の嫌がらせに遭うという困難を乗り越えながら、一流の料理人になる。物語の中にはその懸命な生き様に励まされるような場面がたくさんあるが、たとえば江戸っ子に戻り鰹を食べさせるための工夫は、機知に富んで爽快。江戸っ子は初鰹を好み、戻り鰹を敬遠するため、澪は食材名を伏せた料理名を考えて先入観を取り払うのだ。
関東と関西では、こうした食材の好みだけでなく調味料や出汁も異なるが、違いを意識することは料理人にとって大切なこと。関西系の調理師会に所属し、関西系の料理を作ることも多い堀内さんは、とくに水に注意しているという。理由は、東と西では水の硬度が違うため。「たとえば胡麻豆腐は、軟水を取り寄せて作らないと物足りない味になってしまうんです。東京の水は硬いので、お出汁をひくときに昆布の風味がうまく出ないためだと思います」(堀内さん)。料理人は食べ手の好みだけでなく、その土地の水や食材の性質も理解せねばならないのだ。
心と体を健やかにする料理
さて、小説の澪と堀内さんは、他にもいくつか、料理人としての共通点を持っている。そのひとつが、健康に対する意識だ。小説には澪が料理に対して迷いを感じたとき、自分が料理を通じて人の心と体を健やかにしていることに気付き、自信を取り戻す場面がある。外食が娯楽や贅沢として消費されるとき、料理は美的価値が評価されがちだが、食事本来の目的は生命と健康を維持すること。料理と健康の関係について堀内さんに尋ねると、鰹出汁についてこんな話をしてくれた。「鰹節は栄養価が高く、出汁は昔、栄養ドリンクの様に使われていたそうです。元々そういうものであるせいか、私は疲れている時や心が荒れている時に鰹出汁を飲むと、身体に染みこんでいくような感じがするんですよね」。そんな出汁の力を実感できるのが、「スッポンの茶碗蒸し」だ。
「御料理ほりうち」の開店当初からのスペシャリテである「スッポンの茶碗蒸し」は、表面に出汁をたっぷりと張ったオリジナルスタイル。蓋を開けると、湯気と同時に出汁の香りが立ち上る。長崎産の天然スッポンのスープと鰹出汁を割ったその出汁は、口に含むと細胞に染み渡るように滋味深く、即座に体が温まるのを感じる。出汁の芳醇な香りに加えてほのかな甘みがあるのは、スッポンを煮出す際に酒(と昆布)を使っているため。玉子色の茶碗蒸しは、崩すと飲めるほど柔らかいが、匙ですくってなめらかな口当たりを楽しむこともできる、絶妙な加減だ。「食欲がない夏でもサラッとお吸い物のかわりに飲んでいただけるように、お出汁を多めにして柔らかく仕上げました。若い頃に修業していたお店の茶碗蒸しをさらに柔らかくしているのですが、柔らかくしすぎるとお出汁を張ったときに崩れてしまうので、ギリギリのところでとめています」と堀内さん。そのとろけるような食感と出汁の滋味、甘みを満喫すると、お腹の底から幸福感が湧いてくる。そんな「スッポンの茶碗蒸し」が「御料理ほりうち」で提供されるのは、夏の暑さや冬の寒さが厳しい時期。その時期に予約して味わえば、夏バテや冷えを気遣う堀内さんのやさしさが、出汁の滋味とともに心身に染みわたる。