明石城 撮影/西股 総生(以下同)

(歴史ライター:西股 総生)

「ポスト大坂の陣世代」の城

 面白いことに、城好きの人の中には常人より若干、鉄分高めの人が少なくない。たぶん、城めぐりの旅で鉄道を利用する機会が多いからだと思うが、たしかに鉄旅、わけても在来線で旅をしていて、車窓に城が見えてきたときのワクワク感には、独特のものがある。

 そんな、在来線の車窓から見えてワクワクする城の代表が、明石城である。何せ、山陽本線明石駅のホームに立つと、真っ正面に城の全景がバッチリ眺められのだ。明石城は天守こそないが、端正な三重櫓が本丸の両端にすっくと立つ姿は、なかなか魅力的である。

山陽本線明石駅のホームから見た明石城。向かって右が巽櫓(たつみやぐら)、左が坤櫓(ひつじさるやぐら)

 明石城を築いたのは、元和3年(1617)に10万石で当地に入部した小笠原忠政という譜代大名だ。もともと播磨では、池田輝政が52万石という大封を得ていたが、これは関ヶ原合戦の後に徳川家康が信任篤い輝政を姫路に入れたことによる。対豊臣戦略配置の一環として、大坂と豊臣系西国大名との間に、強力な楔を打ち込んだわけだ。

 ところが、輝政が世を去り豊臣家も滅びると、幕府は池田氏を二つに分けて鳥取と岡山に移した。播磨の広大な旧池田領は解体され、姫路城には譜代の本多忠政が25万石で入るが、実は小笠原忠政は本多忠政の娘婿である。両家の播磨入部はセットだったわけだ。西国で外様大名が挙兵した場合でも、叛乱軍を姫路・明石と各駅停車で足止めし、その間に大坂城で防衛・反撃態勢を整えよう、という幕府の戦略配置が読みとれる。

本丸の中から見た巽櫓。内側が意外にそっけないのは戦闘用の建物だからだ。遠くに明石大橋が見える

 この時期に西国に築かれた「ポスト大坂の陣世代」の城としては、他に福山城・丸亀城・島原森岳城などがある。いずれもコンパクトながら完成度の高い堅城で、筆者は近世城郭の一つの到達点を示していると思う。明石城ももちろん同様で、そんな名城が駅前にあるのだから、城に興味があるなら訪れない手はない。

 明石駅を出て目の前の道路を渡ったら、そこはもう大手門の跡。枡形越しに本丸の石垣と二基の三重櫓を見ながら、まずは三ノ丸へと歩を進める。平山城とは、丘陵・台地の上面から麓の平地までを城域に取り込んだスタイルを指すが、その「平山城」の概念がこれほど一目瞭然な例もなかなかない。

大手門跡の枡形を通って広大な三ノ丸に入ると、正面に高石垣と巽櫓がそびえている

 三ノ丸は広大な公園になっていて、西側には高校野球の地方大会で有名な明石球場がある。このあたりは、かつて隠居曲輪という一角になっていた場所だ。三ノ丸からは、高石垣を見上げながら丘の上にある二ノ丸へ向かうが、道は折れ曲がって石垣の下の腰曲輪を歩かされた挙げ句、枡形へと導かれる。上に城兵が待ち構えていたら、生きて通り抜けるのは至難だろう。

下から見上げた巽櫓。櫓から撃ってくる、と思うと怖いでしょう?

 丘の上の曲輪は、本丸をはさんで西に稲荷曲輪、東に二ノ丸と東ノ丸が連郭式に並ぶ。これらの曲輪はキュッとコンパクトにまとめられていて、三ノ丸が敵の手に落ちた場合でも、残った城兵で持ちこたえられる設計になっている。二ノ丸と本丸の間が狭い土橋で連絡しているあたりにも、本丸を守り抜く意志を感じることができよう。

 本丸の背後には桜堀と剛の池という二つの池があって、北ノ丸とは池にはさまれた狭い一本道でつながるのみだ。敵の侵入を阻む以前に、敵部隊を展開させないという意味で、この守り方は合理的である。

本丸の背後にある剛の池。攻め手は展開も接近も不能だ

 前述したような、徳川幕府の「各駅停車戦略」を前提に考えてみよう。小笠原家と明石城に与えられていたのは、10万石で動員可能な兵力(3000程度)をもって籠城し数日間を耐え抜く、という具体的なものだったはずだ。この任務を果たせるだけのスキルを無駄なく実現している、という意味において、明石城は名城なのである。

 筆者がこの城で好きなのは、何と言っても石垣だ。技術的な完成度が高いこともあるが、瀬戸内産の花崗岩を主体とした石垣は、よく晴れた日中は青みかがった灰白色に見えるが、夕陽を浴びるとほのかに橙色がかって美しい。日が沈むまで眺めていたい石垣なのである。

明石城の石垣は晴天下では青みがかった灰白色に見えるが…
夕方になるとご覧の通り色変する

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