そして厄介なことに、生産性をみんなが向上させてみると、忙しくなっただけ、働く量が増えただけで、ちっとも儲からない。それもそのはず、「欲望が飽和しつつある」からだ。

 スマホは10台も20台も要らない。自動車もお金持ちの趣味でもない限り1~2台でたくさん。家も増えたら「誰が掃除するの?!」という奥さんの怒りの声が怖いし、1軒でたくさん。どの産業でも売り上げ総額は頭打ちなのだ。国の総売上額とも言えるGDPが伸びにくくなるのも、欲望が飽和しつつある現実を移している。

 こうなると、生産性を上げようという運動は、次の結果を生む。

(1)(働く人の)1人当たりの労働時間と労働量が増えたが稼ぎは増えない。
(2)どの産業にも吸収されない失業者が増える。
(3)失業者や低賃金労働者が安い商品に飛び付く。
(4)売り上げの中心が低価格帯の商品となり、安売り競争が加速する。
(5)どの企業も安く商品を提供するようになり、デフレ経済のできあがり。
 

 ミヒャエル・エンデの作品に『モモ』というのがある。「時間商人」が現れ、「時間を貯蓄しませんか? 今一所懸命に働いて時間を貯めて、老後は悠々自適の生活を送るのです」と説得する。それを真に受けた町の人たちは時間を貯めようと必死に働くようになるのだが、ちっとも生活が楽にならず、むしろどんどん心がすり減って働くことが楽しくなくなり、余裕を失って、町から活気が失われてしまう。

 今の日本の姿は、「モモ」の町そっくりだ。みんな生活不安から必死になって働くけれども売り上げは一向に伸びず、生活は楽にならず、給料は目減りするのに働く時間だけが伸びる。そんなデフレ状態から抜け出せないでいる。最近でこそ少子化の影響が強く出始め、人手不足が深刻化し始めたが、それでもなかなか収入は伸びない。それは上述のメカニズムが働くためだ。

資本主義と雇用の両立

 戦後日本は仕事にあぶれる帰還兵の仕事を作ろうと、国鉄(現在のJR)の駅一つひとつに住まわせたりした。その他、あの手この手で雇用を守ろうとした。生産性の視点から見れば、ムダも甚だしいと言われてしまう行為だった。

 なぜ、そんなに雇用を維持しようとしたのか。その理由の1つが、すぐ近くに中国、北朝鮮、ソ連といった共産主義国がひしめいていて、失業者をそのままにしておくと、共産主義者が日本国内でも増えて共産主義化するのではないかという恐怖があったからだ。