戦後75年・蘇る満洲国(5)溥儀が信じた偽りの復辟

【写真特集】消滅国家、満洲国の痕跡を求めて
2020.9.1(火) 船尾 修 follow フォロー help フォロー中
中国歴史
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清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が再び帝位に返り咲くためには、強大な軍事力を持つ関東軍を抜きにしては考えられなかった。彼はあくまでも「皇帝」としての地位にこだわったがゆえ、関東軍を通じて日本と接近し、その夢を果たすことはできたが、それは彼が夢想した皇帝の実際とはかけ離れたものだった。しかし1935年(昭和10年)の国賓としての訪日は、溥儀の人生においておそらく最も有頂天な日々だったはずだ。このとき天皇陛下は自ら東京駅のホームまで足を運んで溥儀を出迎えている。過去にも現在にも天皇陛下は来賓をそのような形で迎えたことはない。
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現在の長春の街の東側にかつての満洲国「仮」皇宮が保存されており、偽満皇宮博物院として一般公開されている。「仮」というのは街の中心部に新皇宮が建設中だったからだ。仮皇宮には謹民楼、緝煕楼(しゅうきろう)、同徳殿などの建物があり、写真の謹民楼は官吏や外国使節たちとの謁見に使われた。玉座の他、常駐の「帝室御用係」吉岡安直の部屋もここにある。
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同徳殿内部の壮麗なホールは、溥儀の生涯を題材にした映画「ラストエンペラー」の撮影にも使用された。日本人による設計で1938年(昭和13年)に竣工され、溥儀と最後の妃である李玉琴が使用する予定だったが、このころには溥儀は関東軍や日本に対して大いなる疑念を抱いており、ここに盗聴器が仕掛けられていることを疑い、一度も使用することはなかったとされる。
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新皇宮は街の中心部に建設予定で1938年(昭和13年)に工事も始まっていたが、1943年(昭和18年)に長引く戦争の影響のため資材不足が原因で建設が中断された。高さ31メートル、横幅220メートルの2階建て建築を予定していた。その後、1950年代に中華人民共和国政府によって4階建ての形で完成。現在は通称「地質宮」と呼ばれ、吉林大学地質宮博物館として一般公開されている。正門前の広大な広場は「文化広場」で、予定では「順天広場」と名付けられることになっていた。
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溥儀は2度訪日しているが、2度目は「皇紀二千六百年記念式典」に参加するために1940年(昭和15年)に来日した。このときは式典への参加の他に、もうひとつ重要な目的があった。満洲国からの要請で、建国神廟の建立のために、天皇陛下からご神体である「鏡」を拝受することになっていたからだ。廟の御祭神は日本と同じ天照大神である。つまり日満一体化を名実ともにするために、同じ神様を祀り、民衆も一心同体となることを求めたのである。神廟跡は礎石部分のみが残されている。鳥居は壁に塗りこめられていたが最近になって修復され、形が蘇った。
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仮皇宮の興運門の上には満洲国の国章が刻まれている。国章はそのまま皇帝旗としても使用された。キク科のフジバカマを図案化したもので、蘭花紋と呼ばれる。フジバカマは日本では秋の七草のひとつであり、万葉の時代から親しまれてきた。かつては中国原産と考えられてきたが、最近では日本原産という説が有力である。
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謹民楼の中には、1932年(昭和7年)に武藤信義大将と鄭孝胥初代国務総理大臣が日満議定書を結んだ際に使用した机がそのまま保存されている。満洲国の自立性を損なうような内容の議定書を結ぶことに抵抗があった鄭孝胥は、議定書にサインした後に辞任を申し出たが認められなかったという。議定書の内容は、日本軍の満洲への駐留を認め、日本人官吏を登用することなど、日本の権益を守る内容であり、五族共和や王道楽土などの標語は単なる飾り程度のものであった。
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溥儀の満洲への凱旋は関東軍の手によって周到に準備され実行された。天津の日本租界を脱出した後、旅順でしばらくその時期を待つことになった。その際に最初に宿泊したのが旅順ヤマトホテル。関東軍の監視の下、2階部分を占有して滞在していたと言われている。旅順ヤマトホテルは戦後、大幅に増築・改装されたため、当時の面影はほとんど残っていない。旅社や招待所などホテルとして使われていたが、私が初めて訪れた2016年にはすでに閉鎖されていた。
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瀋陽からバスで1時間ほどの距離にある撫順は世界屈指の石炭鉱であり、満洲国時代は重要なエネルギー供給源となったところだが、街の郊外に撫順戦犯管理所がある。もともとは関東軍が抗日中国人を拘禁した監獄だが、戦後に中華人民共和国が成立した以降は1950年(昭和25年)から満洲国の日本人戦犯や国民党の戦犯など1300人あまりがここに収監されて、思想改造教育が行われた。溥儀も抑留されていたソ連から解放された後、やはりここで収監された。現在は内部も開放されて博物館として利用されている。
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撫順戦犯管理所では溥儀は「981号」と番号で呼ばれた。1950年(昭和25年)にソ連のハバロフスクから中国の綏芬河へ陸路で移送されるとき、彼は死を覚悟していた。著書には「中国共産党は蒋介石を倒して、どんな〝正統〟も認めていないから、当然私に対してもしたい放題で、少しも遠慮はしないだろう」とそのときの気持ちを記している。1959年(昭和34年)に特赦を受け、北京植物園で庭師として勤務後、周恩来の計らいで満洲族の代表として政協全国委員を務めた。波乱万丈の人生であった。
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