八重姫は江間の家から逃げだした?

 真名本『曾我物語』によれば、祐親は八重と頼朝の間に千鶴が誕生したことを知ると、「娘が源氏の、しかも流人を婿とし、子まで産まれたとあっては、平家からお咎めがあったときに、申し開きのしようがない」と激怒した。

 祐親は翌日、八重姫の元に使いを向かわせ、千鶴を騙して連れ出している。そして、二人の若者と二人の下人に「石をくくりつけて、岩倉の滝山の蜘(くも)が淵沈めろ」と命じたという。

 武士たちに渡された千鶴は、「父上よ、母上よ、乳母よ、どこへ行ったのか。私をどこにやるのか」と腕にしがみついたが、武士たちは情け容赦なく千鶴を川底に沈めた。千鶴は僅か3歳であった。

 さらに、祐親はドラマと同じように、八重姫を伊豆国の武士である江間小次郎に嫁がせている。江間氏は、江間荘(えまのしょう)に本拠を置く小武士団だ(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。江間の地は、北条の地と狩野川を挟んで対岸に位置する。

 その後、祐親は「頼朝は将来、必ず敵になる」とし、今度は頼朝の殺害を計画した。

 しかし、祐親の次男の伊東祐清(すけきよ/『曾我物語』では伊東九郎祐長)が頼朝に通報し、頼朝は祐清の勧めで、祐清の烏帽子親である北条時政の邸に逃れた。そこで頼朝が北条政子と出会ったのは、周知の通りである。

 一方、八重姫は、その後、どのような運命を辿ったのだろうか。

 悲しい最期を迎える伝承が有名ではあるが、ここではあえて、『源平闘諍録』にみえる「その後の八重姫」をご紹介しよう。

『源平闘諍録』では、祐親が定めた夫の名を「江葉(えま)の小次郎近末」と記し、「伊東の娘は江葉に靡かず、密かに江葉の家から逃げだし、縁者のもとに身を寄せた」としている。

 そして、東国政権を樹立した頼朝から呼ばれ、頼朝の計らいで、居並ぶ武士たちの中から、夫となる人物を選んでいるのだ。

 八重姫が選んだのは、千葉系相馬氏の祖・相馬師常(そうまもろつね)であったという。師常は、鎌倉幕府草創に多大な貢献をした千葉常胤の次男である。

 八重姫と師常は偕老同穴——すなわち、最後まで連れ添ったとしている。

『曾我物語』には師常との再婚の記述はなく、真実か否かは定かでない。ドラマではどんな結末を迎えるのか。願わくは、幸せになってもらいたいものである。

 

八重姫ゆかりの地

●音無神社

 伊東の中心市街地を流れる松川(大川)の東岸に鎮座する古社。御祭神の豊玉姫命(とよたまひめのみこと)のお産が大変に軽かったため、古くから「安産の神」、「育児の神」として厚く信仰された。

 この神社が鎮座する「音無の森」で、八重姫と源頼朝は密かに逢瀬を重ねたといわれ、境内には二人を祀った祠がある。

 頼朝は八重姫との逢瀬の折に、かつて松川の対岸に広がっていた「日暮の森」で、日暮れを待ったと伝わる。

 これら八重姫と頼朝の逸話から、音無神社は恋愛パワースポットになっているという。

 現在、音無神社には中央をくり抜ける、ハート型の絵馬が用意されている。願い事を書いたら内側をくり抜き、外側を神社に奉納し、くり抜いた部分は持ち帰るのだ。これなら他人に願いを知られることはない。この絵馬には、願った縁が「頼朝と八重姫のように切り裂かれないように」との願いが込められているという。

 八重姫ならば、絵馬に何を願っただろうか。