「大筋は最初から決まっていたんです。田沼意次の指揮のもと、大奥で研究チームを作り、蘭学の知識を取り入れながら、解決策を探る。途中までうまくいって、でも、田沼の失脚に伴い挫折して。『プロジェクトX』は、やはり1回挫折しないと、次の大成功はない。ですから、黒木でもう1回ねと。そうして精度の高い予防接種になるわけです、弱毒化に成功して。ここだけはフィクションです。『私が100パーセント作る』ところだから、きちんとやらないと。頼れるものが何もないので不安でしたが、何とか描き上げられました。長崎に取材にも行きました。『大奥』全体の中で、一つの山場みたいなところではありました。」(P101・「よしながふみ特別ロングインタビュー」より)
では、史実ではどのように「疱瘡」を乗り越えたのだろうか。
疱瘡は、高熱を発した後、水疱が顔から始まって全身に広がる伝染病である。水疱は血疱(けっぽう)に変わり、化膿して最後に瘡蓋(かさぶた)となる。発症してから2週間ほどで全快するが、その間に死亡することも多く、治ったとしても顔に痘痕(あばた)が残ることもあった。
天然痘を軽い症状ですませて、免疫をつける「種痘(しゅとう)法」が日本に伝わったのは、延享元(1744)年。中国から長崎の町医に伝授されたといわれる。最初に伝わったのは「人痘(じんとう)法」で、病人の瘡蓋の粉などを腕に針で傷を付けて塗り付ける方法や、それらを鼻から吸わせる方法などがあった。寛政元(1789)年、オランダ通詞の吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)の弟子で秋月藩医の緒方春朔(しゅんさく)が改良して九州を中心に広まっていった。
同じ頃、イギリスのジェンナーが人痘を牛痘(ぎゅうとう)に代えた、より安全な「牛痘法」を発明していた。この牛痘法の情報は享和年間(1801~04年)にはオランダ商館長により伝えられていた。また、牛痘法に関する著書が出版されており、その存在は広く知られ、全国に牛痘を待望する蘭方医が多くいた。
嘉永元(1848)年に来日した商館医のモーニッケが佐賀藩の依頼により牛痘漿(うみ)を持参したが失敗した。そこで、日本では瘡蓋で種痘していることを伝え、翌年もたらされた牛痘の瘡蓋で成功した*。佐賀藩主の子も接種している。この痘苗が各地の蘭方医によって、種痘所を設置するなどして全国に広められていった。
*青木歳幸「種痘法普及にみる在来知」(『佐賀大学地域学歴史文化研究センター研究紀要』第7号所収)
1980年、WHO(世界保健機関)は天然痘の根絶を宣言し、人類の力で撲滅に唯一成功した病気となっている。(P79・竹村誠「赤面疱瘡と、江戸時代に猛威をふるった『疱瘡』」より)