店頭で買い物客に宣伝チラシを配るダイエーの中内功氏(1998年当時、写真:共同通信社)

 今、小売業の主役といえば、セブン-イレブンに代表されるコンビニエンスストアだ。しかし1960年代から1990年代にかけての主役は間違いなくスーパーマーケットだった。そしてスーパーマーケットを日本の小売業ナンバーワンの地位にまで押し上げるとともに、価格決定権をメーカーから消費者に引き渡したのが、ダイエー創業者の中内功(正式表記:力→刀)氏だった。「経営の神様」松下幸之助氏との闘いにも一歩も引かなかった男の生き様とは――。

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中内功が築き上げた日本有数の巨大企業グループ、ダイエーはなぜ転落したのか


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巨大企業になっても「庶民の味方」だった

 都営地下鉄「大門駅」から徒歩2分にある14階建ての芝パークビル。高さはそれほどでもないが、全長140m、奥行き50mのどっしりとした姿から、「軍艦ビル」との異名を持つ。ここに、かつての日本一小売業、ダイエーの本社があった。

 社長室に入ると、古き良き時代にアメリカで活躍していたキャッシュレジスタが目に飛び込んでくる。スーパーマーケットの歴史はアメリカの模倣から始まった。その原点を忘れない意味もあってか、そこには10台以上のレジスタが保管されていた。

 レジの前を通り、奥に進むと創業者である中内功氏(1922─2005)が待っている。そして中内氏は自ら紙コップにインスタントコーヒーを入れ、渡してくれる。このルーチンは、取材のたびに毎回繰り返された。

 筆者はこれまで1000人を超える経営者にインタビューしているが、自らコーヒーを入れてくれたのは、後にも先にも中内氏以外にはいない。そこには、取材ぐらいで秘書の手をわずらわせるわけにはいかないという中内流合理主義と、巨大企業になってもダイエーは庶民の味方であるとのポーズがあった。

 取材日がちょうど70歳の誕生日だったことがある(1992年8月2日)。「70歳おめでとうございます」と言っても「何がめでたいんや」というぶっきらぼうな返答で、取り付く島もない。

 かといって人嫌いなわけでもない。中内氏は当時筆者の在籍していた雑誌社のオーナーと親しく、夕方、アポなしでぶらりと現れては、小一時間ほど談笑して帰ることもしばしばだった。晩年は、自ら設立した流通科学大学の学生との触れ合いを楽しみにしており、一緒にシルクロードを旅している。それでいて猜疑心が強く、容易に人を信じなかった。何とも複雑な経営者だった。

 その中内氏が鬼籍に入ってすでに18年がたつ。企業としてのダイエーも、経営不振から産業再生機構に入り、さらにはイオンに吸収された。今、昔ながらにダイエーを名乗る店舗は数えるほどだ。