英国帰りのビスポークテーラー、平野史也さんの美学を探る。
文・写真=山下英介
ビスポークテーラー、東京に帰る
正確な人数はわからないが、イギリス、イタリア、フランスといった〝紳士服の本場〟といわれる国には、たくさんの日本人職人が住んでいて、修行に励んだり、自らの工房を構えている。仕事柄そういった方々に取材をする機会は多かったのだが、2020年から続くコロナ禍によってその機会は皆無に。
彼らはいったいどうしているのかな? なんて気を揉んでいたところ、数年前にロンドンで取材したことのある平野史也さんというビスポークテーラーが、この夏日本に帰国。西麻布に自らのテーラーを構えたという。
平野史也さんは東京の「リッドテーラー」や「テーラー麒麟」で修行したのち英国に渡り、名門「ヘンリー・プール」でカッターを務めていたこともある、実力派のテーラー。本物の英国スーツをつくるために、独立後もロンドンにとどまることを選んだ彼の仕事ぶりは、日本人エリートビジネスマンや、世界のビスポークスーツマニアたちの間で高い人気を誇っていた。
〝現地の空気を吸うこと〟を何より大切にしていた彼が帰国したというニュースが無性に気になって、オープンしたばかりのテーラーにお邪魔することにした。
英国でテーラーを開くということ
「2012年に英国に渡って以来、ロンドンの空気を吸いながら仕事することを大切にしていたのですが、去年過労で倒れてしまって。妻がアトリエに来ていなかったら、危ないところでした。さすがに死ぬのはイヤだな、と思って帰国することにしたんです」
紳士服の世界がコロナ禍で苦境に立たされているのはロンドンも同じだが、ハンドメイドの嗜好品である平野さんのスーツの場合、注文が減って困っているというわけではない。むしろ逆で、あまりの忙しさに体が悲鳴をあげたというわけだ。
「実は自分のアトリエを構えて以来、大晦日と元旦くらいしか休んだことがなかったんです。外注にまわさず、縫製まですべて自分のアトリエで完結させることにこだわっていたのですが、その場合月産で約3.5着。職人をふたりくらい抱えることも考えたものの、ロンドンの最低賃金は約40万円で、ビザを発給する必要もあります。これではどう考えても人が雇えませんよね。永住権も持っているので、とても残念だったのですが」
8年ぶりの日本の住み心地は?と聞くと、「日本はやはり医療も整っていて居心地もいいです。ただ、日本にいると〝目が衰えてしまう〟ことが怖くて。ロンドンにいると、電車に乗っているだけでも格好いいスーツを見ることができるし、目が肥やされるんです」と、平野さん。そのワーカーホリックぶりは相変わらずなのだ。ちなみにこのコロナ禍で、英国のビスポーク業界はどうなっているのだろう?
「英国の名門テーラーって、年間受注数の大半がアメリカをはじめとする海外だったんです。それがトランクショーに行けないとなると、なかなかの打撃ですよね。〝KILGOUR〟や〝STOWERS〟といったサヴィル・ロウのテーラーは、すでに閉店しました。大資本の後ろ盾や、年間契約などをやっていないところは、これからつらいでしょうね」
日本で活動する英国テーラーとして
そんな、ある意味では〝ちょうどいい〟ともいえるタイミングで帰国し、2020年11月から活動を再開した平野さん。若いお弟子さんの成長もあり、週に一度は休める体制を整えたという。英国と日本では、ものづくりに違いはあるのだろうか?
「ロンドンの場合夏でもサキソニーやフランネルを着る人が多いですし、日本とは出る生地が全く違うんです。生地だけではなく、キャンバス(芯地)やパッドもガチガチに入れてしまうと、日本では暑くて着られません。なのでそのあたりはちょっと柔らかくして、というのは心がけていますね」
なるほど。ただ日本の事情にアジャストしすぎると、〝英国らしさ〟が失われてしまうのでは?
「僕の強みは、日本と英国、というふたつの国で修行したことです。だから英国スーツをアジア人に向けてつくる上での提案力はあるのかな?と。ボディバランスはイギリスっぽいけれど、縫製は美しくて着心地もよい、というのが目指すところなんです。かつて修行した『ヘンリープール』そのままにつくるのだったら、僕がやる意味はありませんからね」
英国流のクラシックなカッティングは、軽やかなイタリア製のジャケットに慣れた日本人にとっては、すこし硬く感じられることが多いという。だから平野さんは、その人が今までどんなスーツを着てきたか、というカウンセリングに時間をかけるし、軽量で柔らかな芯地を使うことで、私たち日本人の嗜好に合った着心地を実現している。それでいて、やや高めのシェイプ位置やビルドアップされた肩など、ルックスは実に〝英国らしい〟のだから、願ったり叶ったりである。
「日本人と英国人では、一般的なボディバランスが全く違うんです。日本人がなで肩でお腹の出た〝洋ナシ〟体型が多いのに対して、英国人は逆三角型で鳩胸の体型が多い。だから一般的な英国スーツの型紙は、前身頃を大きく、背幅を小さくつくるんです。これに対して日本人に合う型紙とは、前身頃は小さく、背中を大きめにつくったもの。袖の位置も異なります。こういう体型の違いを理解せずに、まんまサヴィル・ロウ流でやると、まずうまくいきません。とても難しいのですが、僕がつくるスーツでは、そのバランスを取っています」
英国スタイルの復権を目指して
紳士服の源流として君臨してはいるものの、20数年前の〝ネオ・ブリティッシュ〟ムーブメントを最後に、日本で英国的なスーツが流行ったことはない。ビスポークだろうが既製品だろうが、2000年代以降のスーツの主軸は、クラシコイタリア的文脈に沿ったデザインや仕立てだから、若い世代は、いわゆる「英国スーツ」には全くなじみがないといっても過言ではないだろう。しかし、だからこそ彼らは、そこに新鮮な格好よさを見出しているようだ。その証拠に、平野さんのもとに集まる顧客は、30〜40代という若い世代が中心だという。
「当然年齢の高いお客様のほうが予算はお持ちなのですが、若いお客様とは時間をかけて関係を築いていけるので、これからが楽しみです。コロナ禍で大変なときなのに、がんばって人生の節目節目に選んでいただけるのは、本当にありがたいことですね。ドレスコードが厳格なイギリスには〝スマートカジュアル〟的な概念はあまり存在しないのですが、東京ではスーツにニットを合わせるような着こなしも許されます。東京の30代のお客様には、そういうシーンでもビスポークスーツを楽しんでいただきたいですね」
帰国後、ブリティッシュスタイルを標榜する先輩テーラーたちと会合を開いて、改めてその唯一無二の魅力を見直したという平野さん。ようやく週に1日休めるようになったばかりだというのに、すでに日本でしか叶わない、新しい野望が芽生えはじめているという。
「実はイギリスのスタイルを復活させるために、既製服のモデリスト的な仕事もやってみたいんです。ちゃんと日本人の体型や嗜好に合うようにアレンジしながらも、決してイギリスらしさを失わない〝本物〟を……。だれかやらせてくれませんかね?(笑)」