デカルトのもたらした副作用

 プラトンの「優れた人間がトップに立つべき」という提案に、別の側面から補強を施した格好となったのが、デカルトだ。彼の著作、『方法序説』の内容は、2つの方法論に集約することができる。

 第一原理「すべての既成概念を根本から疑い、否定せよ」
 第二原理「確かと思われる事柄から、思想を再構築せよ」

 デカルトは、この2つの原理を示すことで、「思想を根本からデザインする」という新発想を打ち出した。プラトンは国家のデザインを、デカルトは思想を根本的にデザインしうることを示したのだ。

 デカルトの『方法序説』には、奇しくも、ある人物の名前が登場する。リュクールゴスだ。優れた人間が都市をデザインしたほうが合理的で美しい、それと同様に、思想も他人の受け売りなどはせず、独力で再構築するべきだ、とデカルトは述べた。つまり、プラトンが『国家』で示した着想を、デカルトは「思想」に応用して見せたことになる。

 優れた人物だと自認する人は、たいがい、一度は常識を根本的に疑ったことがある人だ。デカルトの提案したことを、知ってか知らずか、実践したことになる。そしてその思考の深さは、常人は到底ついてくることができないほどだ、と自信を持っている。自分ほど常識を徹底して疑い、根本的に物事を考え、自分なりの思想をたたき上げるという、苦痛に満ちた作業を完遂できた人間は、世の中にそうはいない、いや、世界で自分ひとりかもしれない、と考えたくなる。

 実は、この心理状態こそが、デカルトの方法論のもたらす「副作用」だ。デカルトが提案した、「すべての常識を疑え」という作業はとても苦しい。自分の愛着ある世界を、すべて幻影だとしていったん退けるという作業は、自分の愛するものを「殺す」に等しく、身を切るようにつらい。つらくても、デカルトの提案に従うなら、その作業は不可欠ということになる。

 しかし人間には、厄介な心理が働く。とてもつらい思いをした後は、「代償」が欲しくなる。これだけつらい作業をしたのだから、それに見合うものを手に入れたい、という欲望が湧いてしまう。その代償はしばしば、「俺ほど物事を根本的に見直したやつはいない」という、自信、もっとはっきり言ってしまえば、傲慢さということになる。合理的精神を獲得しようとしたその作業の裏には、「自分ほど苦しい思いをして哲学を再構築した人間はそうはいない」という、不遜な感情を生んでしまうのだ。