北条義時ゆかりの地
●法華堂跡(義時の墓)
義時は元仁元年(1224)6月に62歳で死去すると、その墳墓堂(法華堂)が、頼朝の法華堂の東隣の山上に建てられている。義時の墳墓堂は、頼朝の法華堂に対して「新法花堂」と称された。平成17年度(2005年)に行われた発掘調査で発見された遺構から、一辺が8.4メートルの正方形の三角堂であったことが推測されている。
延慶3年(1310)の焼失記事以降、史料に現れないため、その後は再建されなかったと考えられている(山本みなみ『史伝 北条義時』)。
なぜ、義時の法華堂は、頼朝の法華堂の隣に建てられたのだろうか。
先述の山本みなみ氏は、北条政子の差配によるのではないかとみている。頼朝は幕府の創始者である。その頼朝の隣に義時の法華堂を築くことで、義時を頼朝と並ぶ存在として、位置づけようとしたのだという。
●宝戒寺(北条執権亭跡)
宝戒寺は、「小町亭」と呼ばれた義時の邸宅跡に建てられた寺院である。北条氏の家督である「得宗」の主な邸宅は、この小町亭であったという。
鎌倉幕府の滅亡後、倒幕を果たした後醍醐天皇が、北条一門の霊を慰めるため、足利尊氏に命じて、この地に宝戒寺を建立した。ただし、往時の小町亭の敷地は、現在の宝戒寺の10倍であったという。
宝戒寺は花の名所としても知られ、春には桜、夏には百日紅、秋には萩、冬には椿など、四季折々の花々が北条氏の菩提を弔うかのように美しく咲き、境内を彩っている。
●覚園寺(大倉薬師堂)
覚園寺の前身は、義時が建保6年(1218)7月に建て、同年12月2日に薬師如来像を安置・供養した大倉薬師堂(新御堂)だといわれる。
義時は夢のお告げによって、この寺を建てたと伝わる。
『吾妻鏡』建保6年(1218)7月9日条によれば、同年7月8日、三代将軍・源実朝(頼朝の子)が鶴岡八幡宮に参詣した際に、義時も参会した。その晩、帰宅した義時が休息していると、夢の中に薬師十二神将の戌神が現れた。戌神は義時に「今年の神拝は無事に済んだが、来年の拝賀の日には供奉しないように」と告げたという。
義時は、この霊夢のお告げを信じた。弟の北条時房や嫡男の北条泰時の諫言を退け、薬師如来および、その眷属である十二神将を祀る堂を、自費で建立したのだという。その堂は、現在の鎌倉市二階堂、西御門、雪ノ下三丁目の一帯である大倉郷に位置するので、「大倉薬師堂」と呼ばれる。
この大倉薬師堂の戌神将は、のちに義時を危機から救うのであるが、その話はまた、別の機会にご紹介しよう。
大倉薬師堂は、9代執権・北条貞時が「元寇の再来がないように」という祈願を込めて、永仁4年(1296)に寺に改め、「覚園寺」となった。
北条氏の信仰を受け継いだ、鎌倉らしさを感じる寺院である。