元治元年(1864)7月18日、大目付永井主水正、目付戸川鉾三郎・小出五郎左衛門より一橋慶喜の命として、各藩の守備について命令があった。薩摩藩は天龍寺の主力に対する先鋒を命じられたが、翌19日の長州藩征討の叡慮によって、この沙汰は幕命でありかつ勅命となったのだ。この間、朝廷内の動揺が激しく、親長州藩廷臣の勢い甚だしかったが、慶喜の尽力によって鎮静したことを、小松帯刀は鹿児島に伝えている。 19日未明、小松は藩兵の人数を天龍寺と乾門に分け、天龍寺方面に向けて一隊が出ようとしていたところ、中立売御門あたりで砲声があった。そのため、すぐに乾門に集中させたが、長州藩の猛烈な攻撃にさらされる他藩の援護に
小松帯刀の重要性…禁門の変から長州征伐を経て「覚書」で薩長融和を実現
幕末維新史探訪2024(9)真の明治維新の立役者・小松帯刀の生涯とは④
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