IMSコンサルティング・グループ
シニアプリンシパル
前田 琢磨 氏
――これまで、ヘルスケアとIT業界はどのように変遷してきたのでしょうか?
前田 まず、ヘルスケア業界は、古くは「おまじない」の時代がありましたが、それと並行して「対症療法」での経験を蓄積する時代が数千年続いたといえるかと思います。しかし1953年のWatson & Crick博士によるDNAの二重らせん構造の発表以来、対症療法だけでなく「遺伝子レベルでの根本的な治療法」が現実的な研究対象となり、実際に生物学的製剤などの治療薬を含めた新たな治療アプローチが生まれてきました。
一方、IT業界の歴史もDNAのらせん構造の発表とほぼ同じころ、Jack Kilby博士による1958年の集積回路の発明以来、ムーアの法則に従い過去50年間一気に発展を遂げてきました。この発展の中で、2つの流れがあります。ひとつはユーザーに対する「窓」の争奪戦。もうひとつは速度・容量・価格の競争です。
ユーザーに対する「窓」の争奪戦とは、IT業界の覇者の変遷で見てとれます。1980年にパソコンが普及し、ハードウエア自体に付加価値がある時代がありました。その後、1990年にはその付加価値はハードウエアを動かすOSに移り、マイクロソフト社が業界の雄となります。次にOSに依存しないブラウザに付加価値が移行、その後、GoogleやFacebookといった検索サイトやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)に付加価値がさらに移行し、そのたびにIT業界の覇者が移ってきたように見えます。こうした変遷は、ユーザーと情報の間を結ぶ「窓」の争奪戦といえます。Apple社のiPhone/iPadも優れた「窓」をハードウエアとアプリケーションを一体化して実現しています。
もうひとつの流れが、速度・容量・価格の競争。過去50年、演算処理、ストレージ、ネットワークの速度や容量がデータ処理の需要に追いつけず高価であった時期が続きましたが、最近では全ての要素でまさに桁違いのパワーが安価に提供されはじめ、ビッグデータの分析活用が急速に実用化されてきています。
――それを踏まえ、ヘルスケアとIT業界では、今後どのようなことが起こると予想されますか?
前田 ヘルスケア業界においてもIT化は一定の速さで進んできました。例えば、医療の現場でもレセプトコンピューター(レセコン)といわれる診療報酬の計算を行う会計用コンピュータは1970年ごろから普及しています。その後、2000年代に入るとITの活用は、電子カルテによる診療録、医学文献検索、看護記録、病室でのデータ入力などへと広がってきています。さらに最近では、保険者による受療データの活用など、
Real World Evidenceと言われる医療データの活用が注目を集めています。
しかし、こうしたヘルスケア業界のIT化は、まだ病院や保険者、医薬品・医療機器メーカーの目線で医療業務や研究のために進められてきたのが現実です。対患者さん目線でみたIT化は手薄であったと言わざるを得ません。
むしろ患者さん周辺での様々な取り組みは、従来のヘルスケア業界のプレイヤーではなく、新たにヘルスケア業界へ参入してきたIT業界のプレイヤー、エレクトロニクスメーカーなどが積極的です。こうした純粋なヘルスケア業界のプレイヤーではないプレイヤーをここでは“ヘルスケア新興企業”と呼んでみたいと思います。
――“ヘルスケア新興企業”では具体的にどのような取り組みがみられますか?
前田 例えば、ウエルネスやQOL(生活の質)の向上や予防の領域での取り組みが活発です。Woodsmall社のスマートフォンで体重管理を行うアプリケーションや、Fitbit社のワイヤレス活動量計や睡眠計リストバンドを通してデータをスマホやパソコンに送信し、健康管理を行うシステムなどはウエルネスやQOL向上の取り組みの例だと思います。
予防領域では、Medisena社が、ユーザー自身が血糖値や血圧、体温などを測定するためのセンサーとアプリケーションを組み合わせたシステムを開発しました。
当社は“ヘルスケア新興企業”とは言えませんが、健康保険組合が各事業所の特性に合わせた効果的な健康・予防プログラムを計画・実行・評価できるようなツールを開発し、ご提供しています。
さらにヘルスケア新興企業は診断や治療といった従来のヘルスケア業界のプレイヤーが得意としてきた領域での取り組みも増えてきました。
診断領域では、スイス連邦工科大学が、タンパク質や有機酸に反応する酵素センサーを体内に埋め込み、生体情報を医師に伝導するデバイスを開発中です。
治療領域ではProteus Digital Health社が良い例ではないでしょうか。同社のシステムは、体に貼付けるパッチと摂取可能なチップを組み合わせたもの。チップが埋め込まれたデジタル錠剤が発する信号を、患者さんの皮膚上のパッチが受信し、それをスマートフォンのアプリやモバイル機器などに送信することで服薬されたことを確認するシステムです。中枢神経系疾患の治療を受けている患者さんの服薬状況の確認などにおいて、このシステムの利用が期待されています。
もうひとつ、ヘルスケア新興企業ではありませんが、米国の医師が、ある特定の音色のパターンを聞かせることで睡眠を促し、薬に頼らずに睡眠をとることが期待できるBrainwave Music Systemを開発しています。これは睡眠薬を代替するIT的な治療アプローチで興味深い例となります。
――そうした取り組みの現状から見えてくる、ヘルスケア業界とIT業界の未来はどのようなものになると思われますか?
ヘルスケア業界以外のヘルスケア新興企業をみると、患者周辺でのさまざまな取り組みがみられる
前田 具体例からもわかるように、既にウエルネスやQOL向上領域、予防領域では、ヘルスケア新興企業が多数参入し始めています。さらに診断や治療領域についても、今後の流れとしては、スマートフォンをプラットフォームとして使いながら、さまざまな生体情報を収集するセンサーとユーザーにとって使いやすいアプリケーションを付加した製品が登場し続けていくと思われます。また、生体情報の収集頻度もこれまでは年1回程度の健康診断のレベルでしたが、IT化が進むことによって最終的にはリアルタイムでの連続収集の方向に進むと考えられます。
前述したようにIT業界のプレイヤーは、歴史的にユーザーに対する「窓」の争奪戦を繰り返してきましたが、アプリケーションやセンサーの開発力では、そのようなIT業界をはじめとするヘルスケア新興企業に分が有ります。今後は、従来のヘルスケア企業の主なプレイングフィールドだった診断や治療領域にも新興企業は積極的な進出を狙っていくことでしょう。
――それにより、ヘルスケア業界にはどのようなことが起こるのでしょうか?
前田 これは従来のヘルスケアのプレイングフィールドに部外者が参入してきたという単純な話ではなく、新たな基軸のプレイングフィールドが登場しているということだと思います。
これまで医療業界は、R&D・生産・マーケティング・販売といったビジネスの付加価値連鎖と、予防・診断・治療・予後といった市場の付加価値連鎖という、いわば“2次元の平面”をプレイングフィールドとしてきました。しかし、今後はITの付加価値連鎖というもう一つの基軸が加わり、プレイングフィールドが“立体的”になってきます。この立体化したプレイングフィールドの中で付加価値をどう獲るかが次の覇者へのキーとなると思います。
この新しい広大無辺の立体的なプレイングフィールドのなかで特に高い付加価値を獲得するのが、患者さんとの「窓」を獲得したプレイヤーではないかと思われます。患者さんにとって有用な情報を収集しウエルネス・QOL向上・予防・診断・治療・予後に実を結ぶ「窓」となるアプリケーションを提供できるプレイヤーです。
この「窓」となるアプリケーションは、患者さんの視点からみると健康・医療に欠かせない有用な情報を選別・解釈し、患者さんのなんらかの問題を解決するものです。この中で、最も優れた「窓」を患者さんに提供したプレイヤーが次の時代のヘルスケア業界の覇者になるシナリオも十分考えられます。
最近では「医療ビッグデータ」の積極的な利用ということが広く言われていますが、このビッグデータを意味ある形にして患者さんに最適な「窓」を提供する活動は、真の患者中心(Patient-centered)のヘルスケア時代の新潮流を生み出すカギとなるでしょう。
Patient-centeredのヘルスケアでは、患者さん自身が高度な匿名化を前提に情報提供に参加することも重要です。患者さん自身の情報が医療ビッグデータの源泉だからです。同時に、これまでその量やリアルタイム性、さらには多様性で極めて制約の大きかったヘルスケア関連データの収集と分析に基づいて構築されてきた様々なヘルスケアの枠組みも大きな改編が必要になってくる可能性があります。
――新たなPatient-centeredのヘルスケア時代に向けて、IMSジャパンはどのような取り組みを始めているのでしょうか?
医療提供者が「どの医療アプリケーションを“処方”すべきか」の判断を支援する「AppScriptTM」。本社である米国法人IMS Healthが開発・展開しているもので、センサーとの接続、ソーシャル・メディアの使用、アプリケーション内での購買などの情報を収集することが可能
前田 これからは、よりPatient-centeredな視点で患者さんの「窓」となるアプリケーションの成功モデルを確立していくことが大変重要になると考えられます。特にこの領域のアプリケーションは様々なものが存在し、玉石混淆とも言える状況かと思います。ヘルスケアのアプリケーションは直に身体、ひいては生命にも影響を及ぼす可能性があるため、Google的な衆合知(Wisdom of crowds)による自浄作用に頼るだけではなく、それらが適正なものかどうかをスクリーニングするような仕組みが必要です。この仕組みがしっかりしていないと、どんなに“最新のアプリケーション”と謳われているものを取り入れていったとしても、かえって最初にお伝えしたような「おまじない」の時代に後退していってしまうかもしれません。IMSジャパンでは50年前の創業以来培ってきたヘルスケアにおけるきっちりしたプロセスの知見を土台としながら、新たなアプリケーションを活かす方法を考えていきたいと思います。
私が所属するIMSコンサルティング・グループでは、こうしたビジネスモデルの構築支援にも力をいれています。ビジネスモデルの確立には、立体化されたプレイングフィールドの「どこで戦うか」「どのように戦うか」そして「どのように勝つか」の3つの問いに答えていくことが必要です。未開拓領域が多いところですので、自社の強みもよく見極めながら、必要に応じてパートナリングも視野に事業仮説を立てていくことが求められます。IMS コンサルティング・グループではこれまでのヘルスケアとITのノウハウと知見を活かし、この新たな領域のコンサルティングにも挑戦していきます。