「水は選んで購入できます。食べ物も選んだものを食べることができます。でも、通常空気はそうはいきませんよね。ですから、自分で良くする努力をしなくてはなりません」
東京工業大学環境・社会理工学院建築学系の鍵直樹准教授はそう話す。確かに、どんな水を飲むのかは何種類ものミネラルウォーターから選べるし、食べ物もその産地や飼育・栽培の方法を選べるようになってきている。しかし、空気に関しては、いい空気のなかで暮らしたければ、いい空気を作り出すしかないのだ。
そうした空気に、鍵氏は注目して研究を続けてきた。専門は室内の空気。私たちの身の回りの空気は約8割が窒素、約2割が酸素で構成されるが、鍵氏はそれよりももっと少ない物質に注目している。「100万分の1以下の低濃度で空気中に浮いているものを何でも対象にしています」という。
室内の環境は、熱、音、光、水、そして空気に左右されるが、空気の質に関しては、人間は匂い以外を感じにくい。そのため、鍵氏はどんな物質が含まれているのかを計測し、可視化し、環境改善につなげようとしているのだ。
住環境の変化により室内空気環境が変化
室内の空気は、住環境の影響を大きく受ける。住環境が変わってきたことで、室内の空気も変わってきている。
「かつて床は畳、壁はしっくいでしたが、今は大半がフローリングと壁紙になり,内装材や接着剤から汚染物質が発生しています。また、建物の気密性も省エネ性能も高くなりました。こうした建物の変化によって、室内の空気は変わりました。また、かつては室内の空気が汚れていれば、外気を取り込んで換気をして薄めたりしていましたが、その外気もPM2.5で汚染されるなど、問題が増えています」
意外なところでは、昨今増えている集中豪雨による水害も目に見えない形で建物と室内の空気に悪影響を与えるという。
「ゆっくり浸水し、ゆっくり水がひいていくような場合には、建物自体が壊れることは免れたとしても、床下、壁が濡れ、外側は乾いても内側が湿ったままというケースが起こりえます。すると、室内の湿度が高くなってしまい、家が壊れる壊れないではなく、間接的に生活に影響を与える。これをダンプネスと呼びます」
建築物衛生法では、大きな建築物において相対湿度は40%以上70%以下となるように空調設備の維持管理に努めることが求められているが、豪雨が続くなどの影響で、それを上回り続けてしまう可能性があるのだ。
室内空気環境の見える化
湿度が高くなりすぎると、カビが発生しそのカビから胞子が空中に舞い、そこで生活する人に影響を与える。浸水などの被害に遭わなかったとしても、冬場に結露を起こすこともある。調理時に適切な換気を行わなかったりした場合や洗濯物を室内干しした場合、他にも観葉植物・水槽などが多いと、室内の湿度は高くなりやすい。
しかし、水害のようなケースは別として、高湿度とそれによるカビの発生はある程度、“住まい方”次第で解決できるという。
「調理時には換気を習慣化する、といったことが必要です。気密性の高い部屋には24時間換気システムがありますし、室内干しをしたければ浴室乾燥機などもありますから、それらを使えば、室内の温度上昇も軽減されカビ発生リスクも低くなることが期待できるため、まず問題はありません」
鍵氏は、もちろん衣類乾燥除湿機のような家電を使うという方法もあると指摘する。
「しかし、電気代がもったいないからとスイッチを切ってしまうと、それを活かしきれません。換気を止めてしまうと、室内の湿度が上がります。省エネは確かに重要なことですが、そこばかりを追い求めると、空気の状態が悪くなってしまうということです。実際に、同じマンションの同じ間取りの部屋でも、住まい方次第で室内の空気はまったく異なります」
目に見えない空気の状況を意識し、より良い状況にするためには、まずは見える化することがおすすめだと鍵氏はいう。最近ではそういう家電もあるので、温湿度計を部屋に置いたり、専用のアプリを使ったりして、それをチェックして今の室温や湿度を意識することを習慣化することが、コントロールの第一歩になるのだ。
裏を返せば、見えないものはなかなか意識できず、改善しにくいということだ。カビも、生えているのが目に見えれば気になって掃除をしようという気になるが、見えないところに生えているカビは放置されがち。「隠れているところが、一番危ないのです」と鍵氏も強調する。
「カビは、水分と栄養があるところを好みます。夏場のエアコンの室内機の中などは、繁殖に適した環境です。それを放置したまま運転した場合、胞子が部屋中にばらまかれ、エアコンがカビ発生装置になってしまいます。カビの胞子は過敏性肺炎などアレルギーの原因になるとも言われますから、予防のためにも、良い環境を保ってほしいです」
近年、睡眠への関心が高まり、睡眠時間の長さだけでなく、その質が話題になることが増えた。寝室の遮光や遮音を改めて見直したという人もいるだろう。それに加え、睡眠中の空気に関心を持ち、適切な処置をすることで、よりよい眠りを手に入れられる可能性がある。
「カビのほかにも、PM2.5や花粉のように室外から持ち込まれるもの、それから、VOC(揮発性有機化合物)のように、室内の建材や家具に使われている塗料や接着剤など、身体に影響を与えるものは他にもあります」
これらを放置するのか、換気を心がけ空気清浄機を使うなどして対応するのかは、そこで暮らす人次第だ。
1日のうちの9割を過ごす室内のQOL(Quality of Life)
空気に注目し、それを改善しようという動きは、企業の中にも見られるようになってきた。 オフィスの換気量を増大させたり、自然換気ができるシステムにして生産性の向上を図っているところが出てきたのだ。働き方改革が進む中、業務の効率化は喫緊の課題。その解決を、空気で図ろうというものだ。
「ただ、それには投資が必要になりますから、現時点では企業の判断は分かれています。多少、生産性が上がらなくても、換気設備に投資するよりはいいと考える企業もあるのです。では、自宅をどのような環境にするか。それを経営者視点で考えてみるといいのではないでしょうか。そこに現状の温度や湿度といった数字があれば、目標も立てやすく、達成しようという気持ちも持ちやすくなるはずです」
鍵氏によると、現代人は1日のうちの9割を室内で過ごしているという。その室内の空気に無関心なままなのか、関心を抱き改善を試みるのかで、QOLは大きく変わりそうだ。
鍵 直樹 氏
1994年、東京工業大学 工学部 建築学科 卒業。東京工業大学 環境・社会理工学院 建築学系 准教授。研究分野は建築環境工学、空気環境、室内空気質。 室内における空気環境の基礎的な研究を行っており、空気中に浮遊している目に見えない汚染物質の検出・測定による“見える化”、汚染物質の発生源や空間中での特性などの把握と対策を研究テーマとしている。