「松葉屋」という遊女屋は吉原に3軒あったが(綜芸書院『錦絵(14)』)、五代目(三代目、あるいは六代目とも)・瀬川がいたのは、江戸町1丁目の松葉屋だったとされる。 向井信夫『江戸文藝叢話』所収「松葉屋瀬川の歴代」によれば、松葉屋の名跡である「瀬川」という妓名は、九代まで続いたという。 九代の瀬川のうち、享保時代(1716~1736)の瀬川は、親の仇討ちをしたと伝わる(北村一夫『吉原ホログラフィー 江戸・男と女の風俗』)。 三代目とされる瀬川は、踊りや歌、笛、鼓、三味線はもちろんのこと、漢詩の書道や易学にも優れていた。宝暦5年(1755)、御用達の町人・江市屋宗助に落籍されるが、これは名義で、実は
『べらぼう』鳥山検校とは?吉原の伝説の花魁、五代目瀬川(花の井)を大金で身請け、その蓄財、瀬川とのその後
蔦重とゆかりの人々(8)