勝海舟の海軍構想の特色は、単に幕府だけのものとせず、朝廷と幕府双方による、挙国一致的な海軍の隆盛を目指すところにあった。そのためには、朝廷の中で、つまり廷臣の中で、その構想を支持してくれる有力者の存在が必要不可欠だったのだ。そこで、勝から白羽の矢が立てられたのが、姉小路公知(きんひさ/1840~1863)であった。 姉小路は、安政5年(1858)3月に通商条約の勅許阻止のため、「廷臣八十八卿列参事件」という抗議行動に参画して、御所に押し掛けた。文久2年(1862)8月の四奸二嬪排斥運動(即時攘夷派の廷臣により皇女・和宮の降嫁に尽力した公家らを幕府に通じる者として排斥した運動。四奸は久我建通、岩
勝海舟はなぜ姉小路公知を頼ったのか?朝廷内の実力者を説得した勝の熱意と、引き起こされた朔平門外の変
幕末維新史探訪2024(42)勝海舟による海軍建設の実相―神戸海軍操練所と勝塾②
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