嘉永7年(1854、11月27日に安政に改元)1月16日、ペリーは前年に続いて、2回目の来航を果たした。その後、オランダ語を介して交渉が重ねられ、3月3日に至って日米和親条約がペリーと日本側全権の林復斎との間で締結された。 主な内容としては、下田と箱館の開港とそこでの薪水・食料など必要な物資の供給、漂流民の救助と保護、そして、アメリカへの最恵国待遇であった。開港というと、まるで開国したような印象を受けるが、そうではない。日本中のすべての港で物資の供給などをすることは不可能であり、そのため、この2港を指定したという意味合いである。開港というよりは、寄港を許したとする方がより正確であろう。 また
なぜ「通商」ではなく「和親」だったのか?決して弱気ではなかった幕府外交
幕末維新史探訪2023(15)ペリー来航170年ー日米和親条約で開国したのか③
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