火付盗賊改と人足寄場(※)という2つの加役を担っていた平蔵だったが、ただでなくても激務である火盗改の仕事との両立は心身ともに厳しいものがあったのだろう。『御仕置例類集』に記された平蔵が残した判決例は、寛政元年(1789)から寛政3年(1791)までの3年間の合計が30件に対して、平蔵が人足寄場の運営から離れた寛政4年(1792)には25件、寛政5年(1793)に47件、亡くなる前年となる寛政6年には76件もある。 平蔵が犯罪捜査において卓越した手腕を発揮したのは、平蔵が小普請組時代の放蕩生活(※)での経験が役立ったことは想像に難くない。『鬼平犯科帳』でも相模の彦十やおまさといった「本所の銕」時