次は藤原北家の比較的権力中枢に近い人物である。『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』巻八の斉衡(さいこう)三年(八五六)七月癸卯条(三日)には、藤原長良(ながら)の薨伝が載っている。 長良は左大臣藤原冬嗣の長子として、延暦二十一年(八〇二)に生まれた。母は藤原真作(まつくり)の女(むすめ)の尚侍美都子(みつこ)。同母弟に良房(冬嗣二男)・良相(冬嗣五男)、同母妹に仁明天皇の女御となり、文徳(もんとく)天皇を産んだ順子(じゅんし)がいた。嵯峨(さが)天皇の時代の最高権力者である冬嗣の嫡子なのであるから、その後継者となってもよさそうなものであったが、そうはいかなかった。考えてみれば