慶応2年(1866)6月7日、幕府艦隊による周防大島への砲撃が始まり、ここに第2次長州征伐(幕長戦争)が開戦した。幕府は散兵戦術に長け、薩摩藩の名義借りで購入した近代兵器を使いこなした長州軍に大敗したが、追い打ちをかけるように、7月20日に将軍家茂が大坂城で急逝したのだ。 同日、島津久光・茂久父子は征長反対の建白書を提出し、寛大の詔を下して征長の兵を解き、その後に天下の公議を尽くして大いに政体を更新し、中興の功業を遂げるための政治変革を要求した。徳川宗家を継承した徳川慶喜の尽力によって、その建白は朝議では退けられ、孝明天皇によって戦争の継続が沙汰された。 しかし、慶喜は九州方面での敗報が届く