元治元年(1864)4月、朝政参与体制が瓦解したため、島津久光は帰藩の途に就いた。大久保利通・高崎正風・高崎五六らが追従し、小松帯刀・西郷隆盛・吉井友実・伊地知正治らが在京することになった。また、久光次男の島津久治(図書)が滞京したが、久光の傀儡的名代に過ぎず、あくまでも小松が薩摩藩を代表して、指揮命令権を掌握したのだ。 久光は3分の1にあたる500の兵力を残留させたが、その目的は御所の警衛に限定された。当時は、諸侯が次々に退京を開始しており、財政問題も相まって兵力と呼べる在京藩士は残っておらず、薩摩藩の500は過大な兵数であった。 この兵数は、御所警衛もさることながら、長州藩の率兵上京に伴う