文久3年(1863)8月16日、中川宮は薩摩・会津両藩と連携し、即時攘夷派を追い落とすためのクーデターを計画し、参内して孝明天皇に決意を促す予定であった。しかし、天皇が痔疾患のため、出座が遅くなって時を逸してしまった。また、天皇は中川宮の進言にもかかわらず、即時攘夷派の勢威を恐れ、時期尚早として政変計画を退けたのだ。 17日午前10時頃、会津藩公用方の秋月悌二郎は中川宮を訪問した。秋月は宮家諸太夫の武田信発から、「今日になって孝明天皇から中川宮に宸簡がもたらされ、薩摩藩と会津藩と申し合わせ、早々に奮発して欲しいとの希望が記されていた」ことを聞き及び、急ぎそのことを薩摩藩士高崎正風に伝えた。 高