文久3年(1863)、中央政局は即時攘夷を声高に唱える長州藩や、三条実美ら過激廷臣によって牛耳られていた。長州藩では、攘夷実行の期日である5月10日から外国船の砲撃を開始したものの、追随する藩は現れず孤立無援の状態が続いた。即時攘夷派にとって、こうした事態を打開する必要に迫られていた。 即時攘夷派の切り札こそ、孝明天皇の「大和親征(行幸)」の実現であり、中川宮の「鎮撫大将軍」(西国鎮撫使)の任命であった。それを阻止するために、中川宮と高崎正風は動き出したのだ。 8月13日、中川宮の指示によって、高崎正風が会津藩へ政変決行を申し入れた。その状況を、会津藩側の史料『鞅掌録』(会津藩公用方の広沢安任
「八月十六日の政変」は未遂だった!?薩摩藩・会津藩の連携と松平容保の即諾
幕末維新史探訪2023(38)八月十八日政変160年―黒幕は中川宮と高崎正風か②
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