文久3年(1853)5月20日、朔平門外の変が勃発し、姉小路公知が暗殺された。姉小路はなぜ殺されねばならなかったのか、今回はその理由を突き詰めてみたい。 姉小路と言えば、即時攘夷派の中心人物であり、現行の通商条約は直ちに破棄すべきであるという立場であった。しかし、暗殺前には通商条約の容認へと変節したのではという疑念が起こっていたのだ。『中山忠能日記』(5月9日条)によると、「姉小摂海巡検何等事有之候哉」と中山は正親町三条実愛に尋ねている(回答は「分からない」)。姉小路の出処進退の変化に、堂上において既に疑念が生じていることがうかがえる。 中山は20日の日記には、幕府からの廷臣に対する高額な経済