文久3年(1863)5月20日に勃発した朔平門外の変(姉小路公知暗殺事件)の首謀者として、薩摩藩陪臣の田中親兵衛が捕縛されたが、京都町奉行所で自殺してしまった。5月27日、武家傅奏坊城俊克は京都守護職松平容保・小松藩主一柳頼紹・米沢藩主上杉斉憲・和歌山藩主徳川茂承に対し、仁礼源之丞および太郎の糾問の朝命を下した。 表向き糾問は諸侯のすべきことでなく、町奉行の職掌であるとし、内実は薩摩藩との関係悪化を危惧した各藩がこの朝命を固辞した。また、京都西町奉行の滝川具知にも同様の朝命が下ったが、東町奉行の永井尚志の失態(田中の自殺)をはばかり、こちらも固辞してしまった。 そのため、御親兵の中から長州藩士