道綱母の生年は明らかでないが、承平6年(936)頃とみられている(川村裕子『新版 蜻蛉日記Ⅱ』下巻)。 ここでは道綱母の生年を承平6年として計算すると、延長7年(929)生まれの夫・藤原兼家より7歳年下となる。 道綱母の父親は、上総、河内、伊勢などの地方官を歴任した正四位下藤原倫寧。 母親は、通説では主殿頭春通女(とのものかみはるみちのむすめ)であったが、最近では源認女(みとむのむすめ)ともいわれている。『更級日記』の作者・菅原孝標女(たかすえのむすめ)は姪にあたる。 南北朝時代に編纂された系譜集『尊卑分脈』には、道綱母に関して「本朝第一美人三人内也」(日本三美人の一人)」と記述されている。