写真提供:日刊工業新聞/共同通信イメージズ
生成AIの普及により、誰もが手軽にコンテンツを生み出せる時代になった。一方で、「なぜこの企画なのか」「どういえば伝わるのか」がますます問われている。『逃走中』や「伯方の塩」キャンペーンなどの企画を手掛けた著者が著した『コンテンツ化』(高瀬敦也著/クロスメディア・パブリッシング)から一部を抜粋・再編集。多くの人の心に刺さり、共感を生むコンテンツの作り方を探る。TOTOの「ウォシュレット」やデンソーウェーブの「QRコード」のように、企業の一商品を社会の共通言語として定着させるためにはどのような施策が有効なのだろうか。
コンテンツの究極は「一般化」されること
『コンテンツ化』(クロスメディア・パブリッシング)
コンテンツの到達点をあえて決めるとしたら、それは「一般化される」ことかもしれません。誰もが知っていて、誰もが自然に使い、日常生活の中に何の違和感もなく溶け込んでいる状態です。もはやコンテンツとして意識されることすらなくなったとき、それは「社会の文化として定着した」とも言えるでしょう。
たとえば「ウォシュレット」という言葉があります。本来はTOTO社の商標ですが、今では多くの人が「温水洗浄便座」全体を指してこの名を使います。「インラインスケート」を指して「ローラーブレード」と言われますが、こちらもローラーブレード社の商標ですし、「QRコード」もデンソーウェーブ社の商標です。これらは、企業の一商品でありながら、その名称が社会の共通言語になっていった好例です。
こうした現象はマーケティングの世界では「ブランド名の一般名詞化」とも呼ばれ、ジレンマをはらんでいます。ある種の成功である一方で、商標としての独自性や識別力が弱くなるため、企業としてはもろ手を挙げて歓迎するわけでもありません。
しかしコンテンツの目線で言えば、これほど多くの人の生活に浸透したという事実こそが、圧倒的な普及の証であり、究極の目標とも言えるでしょう。もっと長い歴史で見れば、「傘」や「トランプ」、「サッカー」のような存在もそうです。いつ誰がつくったのか、どの国で始まったのかさえ曖昧になっていながら、誰もが知っています。ある種「匿名性」すら帯びて、文化そのものとして受け継がれていく。これはコンテンツが「公共性」と「時間」によって磨かれていく過程とも言えます。
規模が小さくても、同じようなことは日常の中でも起こります。ある商品やサービスの名前が会話の中で使われ、「〇〇的だよね」「〇〇商法じゃない?」といったかたちで比喩や共通理解のベースになった瞬間、それは一種の一般化です。
言葉として機能しはじめたとき、そのコンテンツは文化的文脈において「定着」したことを意味します。
■ 未来の生活に組み込まれているか
こうした定着は、マーケティングの目的とも一致する部分がありますが、より本質的には「人の暮らしに寄り添うことができるかどうか」、という問いに帰結します。人の習慣の一部になったとき、コンテンツは単なる作品や商品ではなく、その人の生活設計の中にまで組み込まれた存在になります。
このように、コンテンツを設計するときには、目先のインパクトだけでなく、長い時間のなかでどう受け入れられ、どう使われていくかという「未来の風景」を想像することが大切です。どんな場面で、どんな人たちが、どんなふうにこのコンテンツを使っているのか。それがはっきりと浮かんでくるとき、コンセプトや世界観にも自然と芯が通るようになります。
すぐに「バズる」ことよりも、静かに、でも確実に、文化に溶け込んでいくこと。それはコンテンツづくりのひとつの理想的な結末であり、そこに至るプロセスには、実は深くて面白い学びが詰まっています。
終わらせたフリをする
すでに何かしらのコンテンツをつくっている方なら、一度はこう思ったことがあるのではないでしょうか。「これはまだ終わっていない」「続けさえすれば、どこかで花開くかもしれない」と。
それは単なる未練や執着ではありません。むしろ、きちんと手応えや兆しを感じているからこそ、まだ終わらせたくないのです。特にプロであれば、そこには「もう少し続ければ、社会やクライアント、あるいはユーザーの利益につながる」という合理的な見立てがあったはずです。責任感のある人ほど、この感覚を抱いたまま終わりを迎えることに、戸惑いや複雑さを感じるものです。
そんなとき、ひとつの選択肢があります。それが、「終わらせたフリをする」ということです。
見かけ上はプロジェクトが終了しても、自分の中で静かに持ち続けておけばいい。いったん引き出しにしまい、別の名前で続けてもいい。そのアイデアがどこかに活かせないかと、心のなかで育て続けていけばよいのです。社会的にはクローズされていたとしても、自分の中では決して終わらせない。そういう「持ち方」があるということです。
コンテンツには、「熟成期間」が必要な場合があります。はじめは理解されずとも、社会の変化やテクノロジーの進展によって、数年後にふと再評価されることがあります。事実、音楽の世界では過去にリリースされた作品が何年も経ってから流行ったり、文学作品が死後に再評価されることも多々あります。時代との相性や接点は、つくり手の力だけではコントロールできないからです。
蒔いた種は、誰かの記憶や体験のなかで、静かに芽吹くチャンスを待っています。大事なのは、手放しても「手放しきらない」こと。手の中に何もなくなったように見えても、つくったものがどこかでつながる瞬間を信じて、アンテナを張り続ける。その姿勢が、コンテンツを生き延びさせる可能性を残します。
そして仮に、何年経っても再開の機会が訪れなかったとしたら、それはそれでひとつの答えです。その時点で、あなたが「それでももう一度やりたい」と思わないのだとすれば、それが自然な終わり方なのかもしれません。
コンテンツが本当に終わるのは、外的要因によってではありません。つくり手自身が「やめる」と決めたとき、はじめて終わるのです。
<著者フォロー機能のご案内>
●無料会員に登録すれば、本記事の下部にある著者プロフィール欄から著者をフォローできます。
●フォローした著者の記事は、マイページから簡単に確認できるようになります。
