イギリスの物理学者・故スティーヴン・ホーキング博士(左)とドイツの哲学者マルクス・ガブリエル
写真提供:共同通信社(左)、DPA/共同通信イメージズ(右)

 グローバル化とデジタル化が進む中、変化の激しい時代に対応するため、歴史や哲学を含むリベラルアーツ(教養)の重要性が再認識されている。本連載では、『世界のエリートが学んでいる教養書 必読100冊を1冊にまとめてみた 』(KADOKAWA)の著書があるマーケティング戦略コンサルタント、ビジネス書作家の永井孝尚氏が、西洋哲学からエンジニアリングまで幅広い分野の教養について、日々のビジネスと関連付けて解説する。

 人間は宇宙を理解できるのか? 最新物理学が示す知の限界とわれわれが持つべき「知的な謙虚さ」について考える。

車椅子の物理学者ホーキング博士

「車椅子の物理学者」として知られているスティーヴン・W・ホーキングは、20世紀で最も著名な科学者の一人だ。21歳でALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し「1〜2年の命」と宣告されたが、幸い病の進行は弱まり、その後50年以上かけて多くの研究を行った。

 40代前半、肺炎による気管切開手術で会話能力を奪われて意思伝達が不可能になりかけたが、視点入力と音声合成装置を備えた重度障害者用小型コンピューターを車椅子につけ、会話ができるようになった。
 
 そんなホーキングはお茶目な人で、「私と私のつながっているコンピューターの違いは、コンピューターは動いていることだ」「イエスは水の上を歩いたと言われているが、それは大したことではない。私は電池で走っている」というジョークを残している。
 
 彼が世界的な著名人になったきっかけは、1989年刊行の『ホーキング、宇宙を語る』(早川書房)だ。宇宙の歴史や存在の意味を平易な言葉でジョークを交えつつ説明した本書は、世界で累計2500万部のベストセラーとなった。本書に登場する数式は、かのアインシュタインの公式E=mc2 だけだが、それなりに歯ごたえがある。早速本書から、理論物理学の深遠な世界をのぞいてみよう。

「一般相対性理論」と「量子力学」の矛盾

 量子力学と、以前に紹介した一般相対性理論は、現代物理学を飛躍的に発展させた。2つの理論を整理するとこうなる。

【一般相対性理論】

 数キロ~宇宙サイズのマクロな構造について、重力や時空間を解明した理論

【量子力学】

 何兆分の1ミリという超極小の素粒子の世界を解明した理論

 実は、これら2つの理論は、お互いにいろいろな矛盾がある。一例を挙げると、量子力学が超極小の世界で扱う「電磁気力」という力は、重力より10の42乗(100×1億×1億×1億×1億×1億倍)も強い。一方で「重力」は、一般相対性理論が扱う宇宙スケールの世界では主役だが、量子力学が扱う素粒子の世界では力が弱すぎて、うまく扱えない。

「互いに世界が違うのなら、使い分ければ?」と思うだろう。確かに宇宙を考えるときは一般相対性理論を使い、半導体チップの設計では量子力学を使えばいい。しかし物理学を突き詰めると、使い分けられない状況が現れるのだ。きっかけは「膨張する宇宙」の発見である。

膨張する宇宙から分かった「ビッグバン」

 1929年、天文学者エドウィン・ハッブルは全ての銀河が地球から遠ざかっていることを発見した。遠ざかる速度は地球からの距離に比例していた。つまり宇宙全体が風船が膨らむように膨張し、互いの恒星の位置が離れ続けていたのだ。宇宙は10億年で5~10%のペースで膨張していることも分かった。これが「膨張する宇宙」の発見である。

 逆算すると、100億~200億年前は宇宙に何千億個もある銀河は、1点に集中していたことになる。つまり宇宙の始まりは、この「ビッグバン」の瞬間にあるらしいことも分かった。

 しかしビッグバンでは、隣り合う何千億の銀河の距離は極小のゼロになり、宇宙の密度は無限になり、重力も無限大になる。一般相対性理論に基づくと、時空間は無限にゆがむことになる。

 しかし、一般相対性理論は現在の宇宙のサイズが前提だ。ビッグバンのような極小サイズの条件は想定外。そこでこの極小世界のビッグバンという環境では、量子力学の出番になる。しかし今度は、量子力学が無視してきた重力の力が無限大になるので、この量子力学も使えなくなる。つまり一般相対性理論と量子力学は、ビッグバンの環境では破綻してしまう。
 
 このように理論が破綻する点が「特異点」だ。1970年、ホーキングは新たな数学テクニックを開発して物理学者ロジャー・ペンローズと共同で論文を執筆し、「一般相対性理論が正しく、宇宙が観測通りならば、特異点があったはずだ」という特異点定理を提唱した。

 この特異点は、他にも存在し得るのだ。ブラックホールである。

ブラックホールという「特異点」

 太陽のような恒星は、水素が集まって生まれる。水素原子は核融合反応で結合し、ヘリウムになる過程で質量が失われ、莫大なエネルギーを生み出す。こうして恒星は何十億年も燃え続けた末、燃料が尽きると冷えて収縮を始める。では、どこまで収縮するのか?
 
 私たちの周囲にあるモノは、どんなに圧縮しても物体内部の粒子が反発し、さほど小さくならない。恒星内部でも同じだ。粒子が熱を持って運動しているので、粒子同士は一定の距離以上に近づこうとせずに反発する。

 このときに恒星がどの程度収縮するかを決めるのが、恒星の重力だ。重力と粒子の反発力が釣り合ったレベルで、恒星の収縮が落ち着く。重力が大きい星ほど圧縮されて小さく収縮する。この収縮は、想像を絶するレベルになる。
 
 太陽と同じレベルの質量を持つ恒星は、半径が太陽の100分の1程度に収縮する「白色矮星(わいせい)」になる。角砂糖ほどの大きさで1トン程度の密度に凝縮される。
 
 質量が大きな恒星はより収縮が進み「中性子星」になる。恒星が自分の重力で急激に収縮が加速する重力崩壊が起こり、角砂糖ほどの大きさで数億トンの密度になり、半径は16㎞程度になる。さらに圧縮が進むと重力場が極めて強くなる。一般相対性理論に基づくと、光ですら脱出できないほど時空間をゆがめてしまい、近づき過ぎたものは光ですらのみ込む「ブラックホール」となる。
 
 ホーキングとペンローズは特異点定理で、ブラックホールの中にもビッグバンと同様に無限大の密度と無限大の時空曲率を持つ特異点があることを明らかにした。
 
 ブラックホールの特異点でも、あらゆる物理法則が破綻する。1960年代まで「一般相対性理論は万能」と思われていたが、そこに疑問を突きつけたのがこの「特異点定理」なのだ。しかもホーキングは、特異点の存在を論文で証明してしまった。

出典:『世界のエリートが学んでいる教養書 必読100冊を1冊にまとめてみた 』(KADOKAWA)
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 ビッグバンとブラックホールは、一般相対性理論と量子力学を無効にする究極の環境だ。ただ、ブラックホールは存在を予言されてはいたものの、未確認だった。実際に確認されたのは最近である。

 2019年、世界で初めて5500万光年離れたおとめ座銀河団の「M87銀河」にある太陽の65億倍もの質量を持つ巨大ブラックホールが撮影された。これがブラックホールの存在についての初の直接的な証拠だ。2022年には、銀河系の中心にある太陽よりも400万倍重い巨大ブラックホールも撮影された。

「なぜ光すらのみ込むブラックホールを撮影できるの?」と思ってしまうが、ブラックホール周辺ではガスや電波が放出される。そこで地球上の8カ所の電波望遠鏡を連動させてデータを合成し、画像を作ったのだ。
 
『ホーキング、宇宙を語る』の解説で大阪大学理学部教授(当時)の池内了氏は「(宇宙創生の出発点となる)宇宙卵は、重力の働きを記述する一般相対性理論と、微視的物質の不確定性原理を本質とする量子論の結婚の上に生まれる。それを証明する『量子重力理論』は、実はまだ完成されていない」と述べている。

 ブラックホールを研究すれば、この新たな理論の検証ができる。だから多くの物理学者がブラックホールを研究している。

 参考までに、映画「インターステラー」は、ここで紹介した世界が映像で表現された知的エンターテインメントである。ブラックホール内部に入った主人公が、地球で待つ娘に特異点のデータを重力波を駆使して送る場面もある。データを解析した娘は重力問題の解を見つけて、人類を救済する。ぜひご覧いただきたい。

最新理論物理学から学ぶ「不知の自覚」

 ホーキングは前掲書をこんな言葉で締めくくっている。

「もしわれわれが完全な理論を発見すれば、その原理の大筋は少数の科学者だけでなく、あらゆる人にもやがて理解可能となるはずだ。(中略)それは人間の理性の究極的な勝利となるだろう──なぜならそのとき、神の心をわれわれは知るのだから」
 
 こうして最新物理学は「森羅万象の根源を解き明かす」という途方もない挑戦をしているのだ。

 一方で「哲学界のロックスター」と称されるマルクス・ガブリエルは、著書『なぜ世界は存在しないのか』(講談社)でホーキングを名指しでこう批判している。

「ホーキングは、世界(中略)を宇宙と同一視しています。(中略)哲学は、すでに長いこと(中略)物理学の対象領域という意味での宇宙と、わたしたち現代人が呼んでいるところの『世界』とを区別してきました。(中略)宇宙はひとつの存在論的な限定領域ですが、ホーキングはそのことに気づいていません」

 ガブリエルの主張を平たく解説すると、あらゆる物質の摂理を考え続けた物理学者ホーキングは「世界=宇宙&素粒子」と考えているが、一般人にとっては「世界=社会」であって「世界>宇宙」である、ということだ。

 例えば、社会には「国境」が存在する。国境を争って人々は戦争まで起こしている。しかしいくら宇宙や物質を観察しても、この国境は物理的には見えない。国境とは、私たちの脳内にしか存在しないのだ。つまり、世界は宇宙よりも大きいのである。

 さて、ニュートン力学の「速度合成の法則」が光の世界では成り立たないという限界を、アインシュタインは相対性理論で乗り越えた。その相対性理論の限界を、ホーキングは特異点定理で指摘した。そして理論物理学の世界でも、また新たな知見が生まれるだろう。
 
 そしてそんなホーキングは「完全な理論を発見すれば、われわれは神の心を知る」と言ったが、「それは世界のごく一部でしかない」と批判する哲学者もいる。

 人類の歴史を見ると、新たな知を見つけると、さらに新たに知らないことが次に現れてくる。この繰り返しが「知の姿」なのだ。2400年前にソクラテスが言ったように、最新物理学のさまざまな取り組みは、改めて科学の出発点は「不知の自覚」であることを教えてくれる。

 これはビジネスパーソンである私たちにとっても示唆が大きい。私たちがすべてを知り得ることは、あり得ない。「知的な謙虚さ」こそが、知のあるべき姿なのである。