AI法規制検討の会合で発言する東大大学院の松尾豊教授
写真提供:共同通信社

 社会課題の解決や持続可能な産業構造の構築が求められる中、材料開発やエネルギー技術といった“縁の下の力持ち”とも言える先端科学が、今大きな注目を集めている。『未来を見通すビジネス教養 日本のすごい先端科学技術』(橋本幸治著/かんき出版)から、内容の一部を抜粋・再編集。日本国内で着実に進む研究開発の最前線を紹介する。

 多くのAIベンチャーと人材を輩出してきた、東京大学の「松尾・岩澤研究室(通称:松尾研)」。なぜ松尾研は日本のAI界の希望となったのか? 異例の運営体制からひもとく。

2つの講座の衝撃的な特徴

 まずは2023年に受講した「GCI」です。これはデータサイエンスやAIの基礎を学べる講座で、松尾研で最も人気のある講座です。

 特筆すべきは、その内容が超実践的であること。単にAIやデータサイエンスの理論を学ぶだけでなく、プログラミング言語Pythonの基礎から始まり、実際のデータを用いた分析演習、機械学習モデルの実装、そして最終的には自ら課題を設定し、ビジネスプランとして練り上げる「事業提案」まで求められます。

 学生時代、ここまで「スキル」に直結する講座を受けた経験がなかったため、まさに衝撃でした。知識を「知っている」レベルから「使える」レベルへ、そして 「価値を創造する」レベルへと引き上げることを徹底的に意識したカリキュラムなのです。

 事実、このGCIを修了し、即座に起業の道へ踏み出した人も少なくありません。

 そして、もう一つ、2024年に受講した「大規模言語モデル(LLM)応用講座」にも度肝を抜かれました。

 これは、今をときめくChatGPTをはじめとする生成AIの心臓部、LLMについて、そのメカニズムから最新の学習手法や応用方法までを深く掘り下げる講座です。最終課題は、公開されているLLMに対し、自らの手で特定のタスクに特化した「チューニング」を施し、その性能向上を競い合うというもので、これもまた極めて実践的な体験でした。

 LLM講座の最大の特徴は、圧倒的な「情報鮮度」です。

 各講義では、時に100ページにも及ぶ詳細なスライドが用いられるのですが、その一枚一枚に、発表されたばかりの最新の研究成果や論文が何本も引用されているのです。時には、ほんの数日前に公開されたばかりの論文が解説に盛り込まれていることもあり、大学の講義という枠組みの中で、これほどリアルタイムに近い情報がダイナミックに共有される場は、他に類を見ないのではないでしょうか。

 まさに、生成AI分野の爆発的な進化の加速度を肌で感じる講座でした。

 さて、筆者がこれらの講座を受けていた時、実は松尾研の運営について、ある大きな勘違いをしていました。

「これほど充実した内容の講座を、なぜ数千人もの学生に無料で提供できるのだろうか。きっと松尾教授は、政府から巨額の研究費や補助金を獲得する卓越した手腕をお持ちなのだろう…」と。

 しかし、事実は私の浅はかな想像とは異なっていました。

学術界では異例の「国からの研究費を断る」

 驚くべきことに、松尾研は2009年以降、国からの研究費に頼ることをやめ、主に企業との共同研究や寄付金によって運営されているのです。年間5000万円あった予算が、国からの研究費を断った当初は200万円まで激減したと言います。

 この大胆な転換は、日本の学術界では異例のことと言えるでしょう。

 なぜ松尾教授はそのような決断を下したのでしょうか。

 その原点には、2005年から2007年にかけて客員研究員として滞在した、アメリカのスタンフォード大学での強烈な体験があったと言います。シリコンバレーの中心に位置するスタンフォード大学では、大学の研究と産業界が密接に結びつき、活気に満ちた「エコシステム」が形成されていました。GoogleやFacebook(現Meta)といった巨大IT企業が大学のすぐそばに拠点を構えており、企業のエンジニアが大学で最新技術を教え、それを学んだ学生が新たな事業を立ち上げ――そんなイノベーションの好循環を目の当たりにしたのです。

 松尾教授は、「良い研究をするには産業界との連携が不可欠だ」と痛感したと言います。このスタンフォードでの経験こそが、松尾教授が日本で独自の道を切り拓く原動力となりました。

 帰国後、松尾教授は日本の研究環境に対する問題意識を抱きつつ、企業との連携を強化。「研究者は自分のしたい研究しかしない」という従来の姿勢から脱却し、企業の抱える本質的な課題を深く理解、それを解決するための提案を行うという、徹底した「価値提供」に舵を切ったのです。この「発想の転換」によって企業からの信頼と資金を獲得し、研究室の運営を軌道に乗せていきました。

 そして今、松尾教授が精力的に取り組んでいるのが、東京大学のある本郷エリアを、シリコンバレーのような世界的なイノベーション拠点へと変貌させる「本郷バレー」構想です。

「年間100社のスタートアップを輩出する」

 大学での基礎研究から生まれた知見や技術が、スタートアップや新しいサービスとして社会に実装され、そこで得られた経済的な価値や人材、新たな課題意識が再び大学に還流し、さらなる研究の進展を促す――。

 そんな持続可能なイノベーション・エコシステムの構築を目指しています。

 そのために、松尾研は最先端の基礎研究はもちろんのこと、筆者も体験したような実践的な人材育成プログラムの提供、企業との共同研究による社会実装の推進、そしてGunosyやPKSHA Technology といった上場企業を含む数多くのスタートアップの育成に力を注いでいるのです。

 このAIエコシステムは、海外からも注目を集めています。

 2024年には、AIデータサイエンス講座「GCI」をマレーシアの大学で実施。今後、インドネシア、南アフリカ、UAE、インドの大学でも展開していくと言います。この講座を足がかりとして、AI人材の輩出や、インターンシップを通じた実践的な経験、そしてスタートアップの立ち上げという、AIを中心としたエコシステムを“輸出”するのだと言います。

 松尾研の勢いはますます加速しています。

「数年後には、松尾研から年間100社のスタートアップを輩出する。これは決して大げさな目標ではない」と松尾教授は語ります。

「スタートアップで成功し、数百億円の資産を手にした人が隣にいたら、もはやサラリーマンになろうとは思わない」――松尾研ではすでに、こうした生々しい“起業の連鎖”が起きているのです。

 この力強い循環こそが、松尾教授の掲げる目標を現実のものへと近づけています。

<著者フォロー機能のご案内>
●無料会員に登録すれば、本記事の下部にある著者プロフィール欄から著者フォローできます。
●フォローした著者の記事は、マイページから簡単に確認できるようになります。