小林陽太郎氏(1997年撮影、写真:ロイター/アフロ)

 前回の大阪万博が開催された1970年。この年、流行語となったのが富士ゼロックスのCMで使われた「モーレツからビューティフルへ」だった。宣伝担当者だったのは、後に社長・会長となる小林陽太郎氏である。高度成長のピーク時にアンチテーゼのCMをつくった小林氏の真意とは──。

当時は珍しかった外資とのジョイントベンチャー

 小林陽太郎氏は、富士写真フイルム(現富士フイルムホールディングス)の3代目社長を父に持ち、自らは幼稚舎から慶應で、大学卒業後は米国でMBAを取得した典型的なサラブレッドだ。

 帰国後、富士写真フイルムに入社したが、すぐに外資の米国ゼロックスとの合弁会社だった富士ゼロックス(現富士フイルムビジネスイノベーション)に転じ、30年以上にわたり社長・会長として同社の顔であり続けた。

 グローバル化が進んだ今、外資との合弁企業は珍しくはないが、1962年の富士ゼロックス誕生時は、まだ珍しい存在だった。しかも外資の多くが、母国での成功体験を「後進国・日本」に教えてあげるというスタンスだったため、なかなか日本市場には受け入れられなかった。

 その中にあって富士ゼロックスは「国内で最も成功した外資とのジョイントベンチャー」と言われていた。そう言われるまでになったのは、イギリスに生まれ、海外生活も長く、日本と海外のいずれの国情や商習慣を知悉(ちしつ)した小林氏の存在があったからに他ならない。

 ゼロックスは1959年に世界初の普通紙複写機を発売した。それまでの複写機は湿式と呼ばれるもので、青写真のように全体に青みがかかっており、画像のシャープさにも欠けていた。それをゼロックスは普通紙にシャープな画像を複写することに成功し、世界中から注文が相次いだ。「ゼロックスする」が「コピーする」の代名詞になったのもそのためだ。

 こうしてゼロックスは複写機市場を開拓した。日本でも富士ゼロックスは急成長を遂げる。しかし、どんな業界でもすぐに二番手三番手が現れる。特に日本の場合は精密機器産業は一種のお家芸のため、キヤノンやリコーなどが富士ゼロックスを追い上げる。しかも後続勢はゼロックスの手薄な小型機で中小企業等をターゲットに営業をかけたため、富士ゼロックスはシェアを落としていった。

 そこで富士ゼロックスは1970年代に入り小型機の独自開発を行おうとする。それまでの開発はすべてゼロックスという体制からの大転換だった。

 ところがゼロックスはこれに難色を示す。日本でシェアを落としていたとはいえ、市場自体は伸びている。それならば利益率の高い大型機を製造・販売した方が利益を最大化できる。リソースを割く必要はないと考えた。

 その際、交渉の任に当たったのが、当時取締役の小林氏だった。ゼロックスに対して日本市場の独自性と、それに対応した複写機が必要であることを訴え、最後は首を縦に振らせた。こうして開発された世界最小の複写機「富士ゼロックス2200」は大ヒット商品となり、これ以降、富士ゼロックスは開発にも力を入れていった。

旧富士ゼロックス(写真:ロイター/アフロ)

高度成長期に「モーレツからビューティフルへ」の広告を打った理由

 その後、世界の複写機市場は日本勢が主導権を握っていく。その結果ゼロックスは業績が低迷していく。それでも富士ゼロックスは日本市場で常に存在感を保ち続けた。それは「2200」の開発・販売からも分かるようにマーケット重視の姿勢がゼロックスよりはるかに強かったためだ。

 仮に小林氏がゼロックスを動かすことができなかったら、富士ゼロックスの業績も低迷しただろうし、そうなれば富士フイルムが写真フィルム絶滅の危機を乗り越えることもできなかったはずだ。

 当時、米国に対して自分たちの立場を強く主張できる日本人経営者は、ソニー創業者の盛田昭夫氏を除けばほとんど存在しなかった。小林氏は極めて稀有な国際派経営者だった。

 小林氏の国際的センスが発揮された例の一つが、富士ゼロックスが1970年に流したテレビCMだった。

 この年、大阪で日本初の万国博覧会が開かれるなど、日本の高度成長はピークを迎えていた。明日は今日より豊かになれると信じられた時代で、誰もが将来の豊かさを得るために「モーレツ」に働いた。

 モーレツという言葉は、1960年代に評論家の武村健一氏が出版した本の中に出てきたのが初出と言われているが、1969年、丸善石油(現コスモ石油)が「オーッ、モーレツ」というテレビCMを流したことで国民的流行語になった。

 そんな時代に富士ゼロックスは「モーレツからビューティフルへ」という広告をぶつけてきた。それまでの日本人が手に入れようとしてきたのは量的・物的な豊かさだった。しかし本当にそれだけでいいのか。むしろこれからは質的・心的豊かさこそが重要ではないかというアンチテーゼだ。

 この時、富士ゼロックスの宣伝担当だったのが小林氏だった。戦後の灰燼(かいじん)の中から奇跡的な復興を遂げ、1968年にGDP世界2位となった日本の高度成長に、世界は驚くとともに恐怖さえ感じた。そのため日本人ビジネスマンは世界で「エコノミックアニマル」と揶揄されていた。

 小林氏は、世界の日本を見る目を痛いほど感じていた。だからこそ、「そろそろ考え方を変えませんか。人間的に生きてみませんか」というCMをあえてつくったのだ。そしてこの考えは、その後の日本で当然のように受け入れられていった。

小林氏が目指した「強い」「やさしい」「おもしろい」会社のバランス

「モーレツからビューティフルへ」の広告や、その後のCSR経営などについて、小林氏は会長となった1998年に慶應大学藤沢キャンパスで行った講演(テーマ「新しい企業理念と日本の課題」)で次のように語っている。

〈人間的に生きるというのは非常に広い意味があります。「モーレツ」というのを一つのたたき潰すべき概念だとしたら、それに対抗する概念とは一体何なのか。(中略)ある意味では若気の至りだったのかもしれませんが、あえてわれわれのチームは「モーレツからビューティフルへ」というコピーを使いました〉

 そして、〈「一体富士ゼロックスはどういう企業になりたいのか」と問われたとき、一言でいうと「よい会社になりたい」〉と話した小林氏は、「よい会社」の定義として次の3つを挙げた。

① 強い会社=業績や技術などが優れている
② やさしい会社=地域や環境との関係でやさしい会社
③ おもしろい会社=富士ゼロックスがらみの仕事をすることが面白い

 事実、富士ゼロックスは、1992年に「よい会社構想」を発表している。前記の「強い」「やさしい」「おもしろい」の3つをバランスよく兼ね備えることで、社員が最大限に能力を発揮でき、それがひいては顧客への価値提供につながるという考え方だ。

 よい会社になるため、富士ゼロックスは環境問題や女性活躍などの働き方改革に力を入れてきた。その結果、「省エネ大賞」を過去最多の13回受賞したほか、育休制度や旧制使用許可制度などを他社に先駆けて導入している。

 それは小林氏が社長・会長を退任しても綿々と受け継がれており、2016年には製造業の「風通しのよい会社ランキング」で1位に選出されている。

「ビューティフル」にしても「よい会社」にしても耳障りのいい言葉であり、意地悪な見方をすれば、「そんなきれいごとで会社経営ができるのか」と疑問を持たれかねない。確かに会社の見た目を取り繕うための言葉であれば、こうした考えを企業に浸透させることは不可能だろう。ところが小林氏は真剣に、人・企業はこうあるべきだと考え、それを実践し、富士ゼロックスの企業文化にまで昇華させた。

 その根底にあるのは「性善説」だ。これは元プレジデント編集長の樺島弘文氏による評伝『小林陽太郎─「性善説」の経営者』に詳しいが、この本の中には小林氏のこんな言葉が紹介されている。

〈富士ゼロックスのカルチャーは性善説です。世の中それほど甘くはありませんと言われても、あえて性善説でいこう〉

 ここまで言い切れる経営者が、一体今の時代にどれだけいるか。国の内外を見渡しても、そう多くはないだろう。それを82歳の生涯にわたり貫き通したところが、小林氏の真骨頂だ。

小林陽太郎氏(撮影:横溝敦)

【参考文献】
『小林陽太郎─「性善説」の経営者』(樺島弘文、プレジデント社)
『経済同友会は行動する』(経済同友会編、中央公論新社)